レバノンの厳しい情勢下で録音された素晴らしいジャズ
レバノンは2019年10月から始まった市民たちによる大規模な政府への抗議を経て混乱していた。そんな状況の中にCOVID-19によるパンデミックがさらなる追い討ちをかけた。
デビュー作『Parallel』(2018年)の成功を受けAFAC(アラブ芸術文化基金)から助成金を得ていたレバノンのジャズ・ベース奏者/作曲家、マクラム・アブール・ホスン(Makram Aboul Hosn)は、当初はその資金でバンドと共にヨーロッパに旅行して次回作の録音を行う予定だったが、混迷する地元ベイルートの経済に少しでも貢献しようと思い直し、2020年8月7日から市内のスタジオでレコーディングのため5日間の予約を取っていた。
録音の予定を3日後に控えた8月4日、あの凄惨なベイルート港爆発事故が起こった。
こんなときに音楽家ができることは僅かなのかもしれない。
悲しみに暮れる街の中で、バンドの誰もが音楽を録音している場合ではないと感じていた。だがマクラム・アブール・ホスンはそのような時だからこそ、精神的な負のスパイラルから抜け出す唯一の方法は音楽という創造的な行為しかないと信じ、主張した。結果レコーディングは決行され、実際にその行為は彼らの心を癒し、安堵させた。
そうして出来上がったアルバムには『Transmigration』、つまり“転生”というタイトルが名付けられた。
ベイルートの再生を祈る悲痛な叫び
(1)「Betcha Sting」はマクラム・アブール・ホスンの前作に収録されていたセロニアス・モンク作の「Bemsha Swing」とまったく同じシンプルなコード進行で展開され、まさに転生を象徴するような曲だ。
続く(2)「WWMD」はアルバム中唯一のヴォーカル曲で、キプロス出身のシンガー、Sima Itayimがゲストとして招かれている。曲調は一見陽気だが歌詞は皮肉が効いており、おそらくは祖国レバノンの情勢に向けられたものだろう。タイトルは勝手な想像だが”What Would Muhammad Do”の略、といったところだろうか。
アフリカ的なリズムに導かれる(4)「Modjadji」は今作のハイライトとなる曲で、ゲストのフルート奏者タレク・アメリー(Tarek Amery)の素晴らしいソロを堪能できる。
フランク・チャーチルによるスタンダード(7)「Someday My Prince Will Come」も丁寧にアレンジされた名演だが、アルバムの背景を知ると厳しい情勢の中で一縷の光を切望するミュージシャンたちの姿が思い浮かんでしまう。
ベイルートの音楽シーンを支えるベーシスト
マクラム・アブール・ホスンはベイルートの音楽シーンに欠かせない人物だ。
2016年にニューヨークでジャズの修士号を得て、2018年にはアメリカ合衆国のピアニストのジェレミー・シスキンド(Jeremy Siskind)とのデュオで『Parallel』を録音。
現在はベイルートでジャズのみならずロック、クラシック、アラブ音楽といった複数のバンドやプロジェクトに所属し、エレクトリックベース/アップライトベースで多忙な演奏活動を行っている。
Tom Hornig – flute, soprano/alto saxophones
Nidal Abou Samra – soprano/alto/tenor/baritone saxophones
Makram Aboul Hosn – double bass
Christopher Michael – drums, vibraphone
Khaled Yassine – percussion
Guests :
Sima Itayim – vocals (2)
Tarek Amery – solo flute (4)
Joe Locke – vibraphone (8)