ジョルジ・エルデル『Samba e Amor: Jorge Helder Toca Chico Buarque』
1990年代以降、MPBの巨匠シコ・ブアルキ(Chico Buarque, 1944 – )のバンドでベーシストを務めたジョルジ・エルデル(Jorge Hélder)が、シコ・ブアルキの80歳を記念して制作した作品がこの『Samba e Amor: Jorge Helder Toca Chico Buarque』(2024年)だ。そのタイトルのとおりシコ・ブアルキ曲集となっており、ほかの誰よりもシコの音楽を支えてきたジョルジ・エルデルという職人的ベーシストによるアレンジが楽しめるアルバムとなっている。
バンドにはシコ・ピニェイロ(Chico Pinheiro, g)、エリオ・アルヴェス(Hélio Alves, p)、ヴィトール・カブラル(Vitor Cabral, ds)といった名手が参加し、さらに数曲でゲスト・ヴォーカリストとしてヴァネッサ・モレーノ(Vanessa Moreno)やフィロー・マシャード(Filó Machado)らが参加するという豪華な布陣。各人の演奏力・歌唱力が凄まじいだけに、シコ・ブアルキという超一級品の素材と相まってまさに“神懸かり的”なプレイが随所に散りばめられ、とてつもなく濃密な音楽体験をリスナーに約束する。
収録された8曲はいずれもブラジルを代表する音楽家であるシコ・ブアルキの代表曲と呼べるものだ。
軍事独裁政権下のブラジル1で、検閲を巧みに避けつつ社会批判を織り交ぜたシコ・ブアルキの大衆芸術の極みとも言える作品群を、見事なブラジリアン・ジャズに昇華。たとえばシコ・ブアルキがミルトン・ナシメント(Milton Nascimento, 1942 – )とともに歌ったことで世界的に広く知られ、今作のカヴァーもアルバムのハイライトのひとつとなる(2)「O Que Será?」では、フィロー・マシャードとヴァネッサ・モレーノの卓越したヴォーカルが霞むほどにバックでインスト陣のあまりに過激な演奏が繰り広げられる。最初のヴァースで披露されるのはヴィトール・カブラルの煽り立てるようなドラミングに乗せて、ジョルジ・エルデルのベーシストとしての技巧を誇示するような超絶的な16分音符のウォーキング・ベース。その後のエリオ・アルヴェスのピアノソロ、そしてそこからリレーのバトンを渡されたシコ・ピニェイロのギターソロはあまりに完璧で言葉を失ってしまう。
(4)「Basta um Dia」の美しさも特筆すべきだ。原曲は1976年のアルバム『Meus Caros Amigos』に収録。歌詞はたった1日の行動や出来事が人生をあらゆる方向へと変える可能性を歌っており、貧困や社会的な不正を皮肉ると同時に、人々に暗に行動を促す曲。ここではヴァネッサ・モレーノによる声の表現力が素晴らしく、彼女が同じレイヤーで映し出す諦観と希望が、人生や社会の”どうしようもなさ”を痛烈に刻み込んでくる。それに追随し雪崩れ込み、エンディングへと導くシコ・ピニェイロの1分間ほどのギターソロはこれまでのあらゆる音楽史の中でも最高峰の演奏なのではないかと思えるほど美しく、価値のあるプレイだ。
社会の不平等を問う(6)「Deus Lhe Pague」や、サンバへの愛を表現した(8)「Samba e Amor」の再解釈も素晴らしい。
Jorge Hélder 略歴
ジョルジ・エルデルは1962年セアラー州フォルタレザ生まれのベーシスト。現在はリオデジャネイロを拠点に活動している。プロデューサーや作曲家としても活躍し、エレクトリック・ベースのほかダブルベースも演奏するMPB(ブラジルのポピュラー音楽)を支える存在として知られている。
1980年代から音楽キャリアを始め、1990年代以降はMPBの巨匠シコ・ブアルキのバンドでベースを担当し、数々のツアーや録音に参加した。共作曲として「Bolero Blues」「Rubato」「Casualmente」などを手がけている。また、マリア・ベターニア(Maria Bethânia)、イヴァン・リンス(Ivan Lins)、ジョイス・モレーノ(Joyce Moreno)らとのコラボレーションでも知られ、ジャズ、ボサノヴァ、サンバを融合した洗練されたスタイルを特長としている。
2020年に40年のキャリアを経て初のソロリーダー作『Samba Doce』をリリースし、高い評価を得た。2024年にはシコ・ブアルキ(Chico Buarque)の80歳を記念したトリビュートアルバム『Samba e Amor: Jorge Helder Toca Chico Buarque』を発表。インストのほか、ゲスト・ヴォーカリストとしてヴァネッサ・モレーノ(Vanessa Moreno)やフィロー・マシャード(Filó Machado)を迎え、ジャズ寄りのアレンジを施し話題となった。
Jorge Hélder – electric bass, double bass
Chico Pinheiro – guitar
Hélio Alves – piano, keyboards
Vitor Cabral – drums, percussion
Rafael Mota – percussion, effects
Guests :
Vanessa Moreno – vocal
Filó Machado – vocal
Lury Batista – vocal
- ブラジル軍事独裁政権…1964年に軍部がクーデターを起こし、その後21年間続いた軍事政権。共産主義革命から国を守るという名目だったが、実際には民主主義体制の既得権益を脅かされる大地主や起業家と結託したものだった。この政権下では、人権侵害、拷問、行方不明者が多数発生し、市民の自由が抑圧された。 ↩︎