マリア・ベターニア(本名:Maria Bethânia Vianna Telles Veloso、1946年6月18日 – )は、「MPB(ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック)の女王(Rainha da MPB)」や「女王蜂(Abelha Rainha)」と称され、50年以上にわたるキャリアの中で2,600万枚以上のディスクを売り上げ、ブラジル音楽史上最も商業的に成功した女性歌手の一人だ。「ブラジル映画祭+ 」で、彼女のことを扱う音楽ドキュメンタリー映画『2月のために~マリア・ベターニアとマンゲイラ〜』が上映される。こちらが日本語字幕付きの予告だ。
↓の記事に、本作は「単なる歌手の伝記ではなく、ブラジルの文化的・精神的な深層を探る旅となる」とあるが、マリア・ベターニアがブラジルにおいて如何に評価されてきた歌手かという点は、大きく省略されている。しかしながら、日本での上映となるとマリア・ベターニアのことをあまり知らない方にも観て欲しいし、映画への理解を深めて欲しい。
なので、本稿では、彼女のキャリアそのものを紹介します!
- 1 マリア・ベターニア|バイオグラフィー|
- 1.1 ① 聖なる起源とバイーアの風土(1946年 – 1959年)
- 1.2 ②芸術への覚醒 — サルヴァドール時代(1960年 – 1964年)
- 1.3 ③リオデジャネイロと「Carcará」の衝撃(1965年 – 1966年
- 1.4 ④独自のスタイルの確立と「ドーシズ・バルバロス」(1967年 – 1976年)
- 1.5 ⑤頂点 — 『Álibi』現象とミリオンセラー(1977年 – 1980年)
- 1.6 ⑥沈黙の実験と再構築(1981年 – 1999年)
- 1.7 ⑦完全なる独立 — キタンダの時代(2000年 – 2010年)
- 1.8 ⑧現代の巫女として(2011年 – 2024年)
- 1.9 ⑨マリア・ベターニアの肖像 — 信仰、愛、哲学
- 1.10 最後に:ブラジルの「魂」そのものとして
マリア・ベターニア|バイオグラフィー|
① 聖なる起源とバイーアの風土(1946年 – 1959年)
1. サント・アマーロ・ダ・プリフィカソン(Santo Amaro da Purificação)

マリア・ベターニア・ヴィアナ・テレス・ヴェローゾ(Maria Bethânia Vianna Telles Veloso)は、1946年6月18日、ブラジル・バイーア州のレコンカボ(Recôncavo)地域にある古い植民都市、サント・アマロ・ダ・プリフィカソンで生を受けた。 この土地は、サトウキビ農園の歴史を持ち、アフリカから連れてこられた奴隷たちの文化と、ポルトガルのカトリック文化が深く混ざり合った場所だ。ブラジルのサンバの原型の一つである「サンバ・ヂ・ホーダ」の発祥地としても知られ、音楽と信仰が空気のように生活に浸透している。

2. ヴェローゾ家の精神的支柱
ベターニアは、8人兄弟の6番目として生まれた。彼女の人格形成には、両親の存在が決定的な役割を果たしている。
母:クラウディオノール・ヴィアナ・テレス・ヴェローゾ(愛称:ドナ・カノー) 彼女は後に105歳で亡くなるまで、その慈愛と強さでブラジル全土から「国民の母」として崇拝された人物だった。彼女の家は常に開かれており、祭りの日には何百人もの人々に料理を振る舞っていた。ベターニアの持つ「もてなしの心(Acolhimento)」と、揺るぎないカトリック信仰は、母から受け継いだ最大の遺産だ。
父:ジョゼ・テレス・ヴェローゾ(愛称:セウ・ゼジーニョ) 郵便局員であった彼は、同時に数学を愛し、詩を愛する知識人でもあった。彼は子供たちに、権威に屈しない自由な精神と、芸術への敬意を教え込んだ。家の中には常に本があり、知的会話が飛び交っていた。

3. 「マリア・ベターニア」という名の予言
彼女の名前には特別な逸話がある。彼女が生まれた時、当時4歳だった兄のカエターノ・ヴェローゾは、ラジオから流れるある曲に夢中だった。それはカピーバ(Capiba)が作曲し、大歌手ネルソン・ゴンサルヴェス(Nelson Gonçalves)が歌ってヒットしていたワルツ「Maria Betânia」。 カエターノは両親に「妹の名前はこれ以外にない」と強く主張した。当初、父親は「タンゴのような名前だ(当時その曲は少し悲劇的な調子だったため)」と難色を示したが、最終的に息子の熱意に負けた。 聖書において「ベターニア」は、ラザロ、マルタ、マリアの姉弟が住み、イエス・キリストが安らぎを得た場所。この名前は、彼女が将来、音楽と言葉を通じて人々の魂を癒やす「家」のような存在になることを予言していたのかもしれない。
②芸術への覚醒 — サルヴァドール時代(1960年 – 1964年)
1. 教育と演劇への没頭
1960年、13歳になったベターニアは、より高度な教育を受けるため、家族と共にバイーア州の州都サルヴァドールへ移住した。 当時の彼女は歌手になるつもりは全くなかった。彼女の夢は「女優」になることだった。彼女はバイーア連邦大学の演劇学校に通い始め、そこでスタニスラフスキー・システムやベルトルト・ブレヒトの演劇論など、前衛的かつ本格的な演技指導を受けた。 彼女が後にステージで見せる、歌を単に歌うのではなく「歌詞の物語を演じる」スタイルや、楽曲の間の緊張感、身体表現の豊かさは、この時期の演劇教育によって培われたものだ。
2. トロピカリア前夜の群像
1963年、兄カエターノは劇作家ネルソン・ロドリゲスの問題作『Boca de Ouro(黄金の口)』の音楽を担当することになり、妹を誘った。ベターニアはこの劇の冒頭で、アタウルフォ・アルヴェス(Ataulfo Alves)のサンバを無伴奏で歌った。これが彼女のプロとしての初舞台となった。
当時、サルヴァドールのヴィラ・ヴェーリャ(Vila Velha)劇場周辺には、後にブラジル音楽を革命する若き才能たちが集結していた。
- カエターノ・ヴェローゾ(兄)
- ジルベルト・ジル(最初はアコーディオンを弾いていた。カエターノの盟友)
- ガル・コスタ(当時の名はマリア・グラサ。クリスタルのような声を持つ少女)
- トン・ゼー(前衛的な実験音楽家)

ベターニアは彼らと共に、伝説的なショー『Nós, Por Exemplo(例えば、私たち)』や『Nova Bossa Velha, Velha Bossa Nova』に出演した。彼女の太く、低く、土着的な響きを持つ声(コントラルト|女性の歌声の中で、最も低い音域を指す)は、当時の主流だったボサノヴァの「ささやくような歌唱法」とは対極にあり、地元メディアや批評家に「怪物的な才能の出現」と衝撃を与えた。
③リオデジャネイロと「Carcará」の衝撃(1965年 – 1966年
1. ナラ・レオンの代役指名
1964年、ブラジルで軍事クーデターが発生し、長く暗い軍事独裁政権時代が始まった。 1965年初頭、リオデジャネイロでは、軍事政権への抵抗と社会的メッセージを含んだショー『Opinião(オピニアオン/意見)』が上演されていた。主演はボサノヴァのミューズであり、左派的な文化運動の中心人物だったナラ・レオンだった。 しかし、ナラは喉の腫瘍のためドクターストップがかかり、降板を余儀なくされる。ナラは演出家にこう言った。「私の代わりができるのは、バイーアにいるカエターノの妹、あの少女しかいない」。 18歳のベターニアは、兄カエターノに付き添われ、リオ行きのバスに乗った。
2. 伝説となった「Carcará」の絶叫
1965年2月13日、マリア・ベターニアはリオデジャネイロの舞台に立った。 ショーの中で彼女に与えられたソロ曲は、ジョアン・ド・ヴァリ(João do Vale)が作曲した「Carcará(カルカラ)」だった。これは、ブラジル北東部の干ばつ地帯(セルトン)に生息する猛禽類、カルカラを歌った曲だ。カルカラは飢えを生き抜くためなら、他の動物でも、燃え残った森の生き物でも何でも貪り食う。
ベターニアはこの曲を、優雅に歌うことはしなかった。彼女は怒りを込めて叫び、床を踏み鳴らし、歌詞の一節「Carcará / Pega, mata e come!(カルカラ、捕らえて、殺して、食らう!)」を、まるで観客に襲いかかるかのように絶叫した。 このパフォーマンスは、軍事政権による搾取と暴力に苦しむブラジル国民の「怒り」のメタファーとして受け取られた。彼女の痩せた体から発せられる圧倒的なエネルギーは劇場を震わせ、彼女は一夜にして「抵抗のシンボル」「反体制のジャンヌ・ダルク」として国民的スターとなった。
3. アイデンティティの葛藤
しかし、この成功はベターニアにとって両刃の剣だった。世間は彼女に「政治的なプロテスト・ソング」を求め続けたが、彼女自身の本質は、政治アジテーターではなく、人間の「愛」や「情念」を表現したいと願うロマンチストだったからだ。 「私はボレロが歌いたいのに、みんなは私に拳を振り上げてほしいと言う」。この葛藤により、彼女は一時バイーアへ帰郷することも考えたが、最終的にリオに留まり、自身の信じる「演劇的でロマンティックな音楽」を追求する道を選んだ。
④独自のスタイルの確立と「ドーシズ・バルバロス」(1967年 – 1976年)
1. 詩の朗読という発明:『Rosa dos Ventos』
「プロテスト歌手」のレッテルを剥がすため、彼女はナイトクラブでのリサイタルに注力し、観客との親密な対話を重視した。 1971年、演出家ファウジ・アラッピ(Fauzi Arap)と共に制作したショー『Rosa dos Ventos(羅針盤)』は、彼女のキャリアの分水嶺となった。このショーで彼女は、歌と歌の間に、フェルナンド・ペソアやクラリッセ・リスペクトールといった難解な詩人の作品を朗読するスタイルを確立した。 彼女の声にかかると、難解な現代詩が、まるで日常会話や祈りの言葉のように響き、観客の心に直接届いた。これにより、彼女は「歌手」であると同時に「言葉の伝道師」としての地位を確立した。
↑ Clarice Lispector の詩の朗読
2. 甘き野蛮人たち(Doces Bárbaros)
1976年、彼女はカエターノ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタと共に、伝説のスーパーグループ「Doces Bárbaros(ドーシズ・バルバロス|甘き野蛮人たち)」を結成した。 これはブラジル版のヒッピー・ムーブメントの頂点であり、アフロ・ブラジリアン文化とサイケデリック・ロックを融合させた祝祭的なプロジェクトだった。彼らは奇抜な衣装をまとい、ブラジル全土をツアーを行った。
しかし、ツアー中にフロリアノポリスでジルベルト・ジルが大麻所持の容疑で逮捕され、強制的に精神病院へ収容されるという事件が起きた。 ベターニアはこの時、敢然と権力に立ち向かった。彼女はショーを中止せず、ステージ上でジルの不在を強調し、無言の抗議を行った。この時期の彼女は、自由、カウンターカルチャー、そして友愛の象徴だった。
⑤頂点 — 『Álibi』現象とミリオンセラー(1977年 – 1980年)
1. 女性初の快挙
1970年代後半、ベターニアは大衆音楽(MPB)の頂点に君臨した。 1978年にリリースされたアルバム『Álibi(アリバイ)』は、ブラジル音楽史上、女性歌手として初めて100万枚以上のセールスを記録した。これは当時のブラジル市場では前代未聞の数字だった。
- “O Meu Amor”:シコ・ブアルキの『三文オペラ』からの楽曲。サンバ歌手アルシオーネとのデュエットで、一人の男を奪い合う二人の女の情念を官能的に歌い上げた。
- “Explode Coração”:ゴンザギーニャ作。「心よ、爆発しろ」と歌うこの曲は、抑圧された時代を生きた人々の解放のアンセムとなり、現在でも彼女の代表曲だ。
- “Cálice”:シコ・ブアルキとジルベルト・ジル作。独裁政権下の検閲を批判したこの曲を、彼女は圧倒的な緊迫感でカバーした。
2. ラジオの女王
続く『Mel(蜂蜜)』(1979年)、『Talismã(タリスマン)』(1980年)も爆発的なヒットを記録。この時期、彼女の歌声はタクシーのラジオから、スラム街のバー、上流階級のパーティーまで、ブラジルのあらゆる場所で流れていた。彼女は名実ともに「ブラジルの声」となった。
⑥沈黙の実験と再構築(1981年 – 1999年)
1. 商業主義への反逆:『Ciclo』
商業的絶頂期にあった1983年、ベターニアは周囲の期待を裏切るアルバム『Ciclo(サイクル)』を発表した。 アルバムには、派手なサンバやラジオ向けのキャッチーな曲はほとんどなく、ピアノやギターを中心とした、シンプルで研ぎ澄まされた演奏で、まるで小さな部屋で彼女が独り言を呟いているかのような、「個」に向き合う歌声が特徴だった。内容は極めて内省的で、商業性を完全に無視した芸術作品だった。 レコード会社は困惑し、セールスは落ち込んだが、批評家たちは彼女の「売れることよりも芸術家としての真実を優先する姿勢」を絶賛した。このアルバムは現在、彼女のディスコグラフィーの中で最も美しい傑作の一つとされている。
2. ロベルト・カルロスの復権:『As Canções que Você Fez pra Mim』
1993年、彼女は再び世間を驚かせた。アルバム『As Canções que Você Fez pra Mim(あなたが私に作ってくれた歌)』で、ブラジルのポップスター、ホベルト・カルロス(とエラズモ・カルロス)の楽曲のみをカバーした。 当時、インテリ層や批評家にとって、ホベルト・カルロスの音楽は「大衆迎合的で俗っぽい(Brega)」と見なされていた。しかし、ベターニアはその甘いメロディーの中に潜む「普遍的な愛の真実」を見抜き、極めて洗練されたアレンジで歌い上げた。 このアルバムは150万枚を超える大ヒットとなり、ロベルト・カルロスの楽曲の芸術的価値を再評価させると同時に、ベターニアの大衆的な人気を決定づけた。
⑦完全なる独立 — キタンダの時代(2000年 – 2010年)
1. メジャー・レーベルとの決別
2001年、グローバリゼーションが進む音楽業界において、大手レーベル(ユニバーサル・ミュージック)の商業至上主義的な方針に疑問を感じたベターニアは、契約を打ち切った。 彼女は、より自由でアーティスティックな活動を保証する独立系レーベル「Biscoito Fino(ビスコイト・フィーノ)」に移籍し、自身のレーベル「Quitanda(キタンダ=市場、八百屋の意)」を立ち上げた。
2. ブラジルの深層へ:『Brasileirinho』
独立後、彼女の作品はよりコンセプチュアルで、ブラジルのルーツを探求するものになった。 2003年のアルバム『Brasileirinho』は、聖人への祈り、地方のフォークロア、先住民の神話などを織り交ぜ、「ブラジル人であることの精神的な意味」を問う壮大な叙事詩だった。
3. 水の二面性:川と海
2006年には、異例の「アルバム2枚同時リリース」を行った。
- 『Pirata(海賊)』: ブラジルの内陸を流れる「川」をテーマにした、素朴で力強い作品。
- 『Mar de Sophia(ソフィアの海)』: ポルトガルの大詩人ソフィア・デ・メロ・ブレイネルの詩を用い、「海」の無限性と神秘をテーマにした洗練された作品。 この対比は、大陸国ブラジルが持つ「内陸の土着性」と「大西洋を通じた外部への広がり」を見事に表現した。
⑧現代の巫女として(2011年 – 2024年)
1. マンゲイラへの献身:『A Menina dos Meus Olhos』
2016年、リオのカーニバルで名門エスコーラ・ジ・サンバ「マンゲイラ(Estação Primeira de Mangueira)」が、ベターニア自身をテーマ(エンヘード)に掲げて優勝を果たしたことは、彼女のキャリアにおける至福の瞬間であった。その深い絆への返礼とも言える作品が、アルバム『Mangueira – A Menina dos Meus Olhos(マンゲイラ -私の目の中の少女)』(2019年配信、2020年CD発売)だ。
この作品は、彼女が長年にわたり歌い継いできたマンゲイラ賛歌のアンソロジーに、未発表音源を加えた企画盤である。「A Menina dos Meus Olhos(私の目の中の少女=目に入れても痛くないほど愛しい存在)」というアルバムタイトルが示す通り、ここには彼女が愛してやまない「緑とピンク(マンゲイラのチームカラー)」への深い帰依が込められている。収録曲にはネルソン・カヴァキーニョやカルトーラといったマンゲイラの巨匠たちの楽曲が並び、彼女の音楽的ルーツの一つが、洗練された劇場だけでなく、民衆の熱気溢れるサンバ・コミュニティ(モーホ)にも深く根ざしていることを再確認させる作品となった。
2. 老いの美学とパンデミック
70代を迎えたベターニアの声は、高音の艶を保ちつつも、低音の深みがさらに増し、まるで地響きのような説得力を持つようになった。 2021年、新型コロナウイルスのパンデミック中に制作されたアルバム『Noturno(夜想曲)』では、死と隔離の孤独に向き合いながらも、生きる意志をピアノと声を中心とした静謐なサウンドで歌い上げた。
3. 2024年:歴史的な再会と栄誉
最新の2024年において、ベターニアは再びブラジル全土を熱狂させた。
- Caetano & Bethânia Tour: 兄カエターノ・ヴェローゾと共に、ブラジル全土のアリーナを巡る大規模なジョイントツアーを敢行。二人が本格的にタッグを組んでツアーを行うのは46年ぶりであり、チケットは発売と同時に即完売。世代を超えた数十万人の観客が涙した。
- 名誉博士号の授与: 2024年11月、セアラ連邦大学(UFC)は、彼女に対し「名誉博士号(Doutora Honoris Causa)」を授与した。大学側は彼女を「歌と詩を通じてブラジルの文化的アイデンティティを構築し、言葉を救済した知性」として称えた。
⑨マリア・ベターニアの肖像 — 信仰、愛、哲学
1. 裸足のステージと手の魔術
ベターニアは、コンサートでは必ずと言っていいほど裸足になる。これは、彼女が大地(Ochão)との直接的なつながりを重視し、そこからエネルギーを得るための儀式だ。 また、彼女はマイクを持たない方の手で、歌詞の一語一語を空間に描くように動かす。その手の動きは「雄弁」であり、言葉以上の感情を観客に伝える。彼女にとってステージは「祭壇」なのだ。
2. カトリックとカンドンブレの習合(シンクレティズム)
ベターニアの芸術の核心には、ブラジル特有の宗教観がある。 彼女は敬虔なカトリック教徒であり、故郷サント・アマロの「清めの聖母(Nossa Senhora da Purificação)」を深く信仰している。 同時に、彼女はアフリカ系ブラジル宗教カンドンブレの信者(Filha de Santo)でもある。1981年、彼女はサルヴァドールの最も権威あるテレイロ(寺院)である「ガントワ(Gantois)」にて、伝説的な司祭マンイ・メニニーニャの下でイニシエーションを受けた。 彼女の守護神(オリシャ)は、風と雷の女神イアンサン(Iansã)と、川と美の女神オシュン(Oxum)。激しさと優しさという彼女の二面性は、まさにこの二つの神の性質そのもの。彼女はステージ上で頻繁に神々への賛歌を歌い、首には信者の証であるビーズのネックレス(Guias)を身につけている。
3. 沈黙の私生活とパートナー
「ステージの私は女王だが、家ではただのマリア」と語る彼女は、極めてプライバシーを重視する。リオデジャネイロ西部の山間部にある家に住み、ガーデニングや刺繍、読書をして過ごすことを好む。社交界のパーティーには一切顔を出さず、メディアへの露出も極限まで制限している。 彼女には子供がいないが、かつてこう語った。「神は私に子供を与えなかったが、歌を与えた。私の歌こそが私の子供であり、彼らは世界中を旅している」。 長らく独身を通していると信じられていたが、近年(2017年頃以降)、著名なスタイリストであるジルダ・ミダニ(Gilda Midani)との結婚(パートナーシップ)が公になっている。ジルダは近年のベターニアのステージ衣装も担当しており、公私にわたるパートナーだ。ベターニアはこの関係についても多くを語らないが、自然体で静かな愛を育んでいる。
最後に:ブラジルの「魂」そのものとして
マリア・ベターニアの生涯をたどることは、現代ブラジルの文化史そのものをたどることだ。 軍事政権への抵抗、カウンターカルチャーの狂騒、民主化後の商業的成功、そしてルーツへの回帰。彼女はその全ての時代において、流行に流されることなく、常に「ブラジルの本質」を歌い続けてきた。
彼女は単なる歌手ではない。彼女は、ポルトガル語という言語の美しさ、アフリカ由来のリズムの力強さ、そして人々の喜びと悲しみを、その体という器を通して濾過し、芸術へと昇華させる「シャーマン(巫女)」だ。 78歳を超えた今も、彼女が裸足でステージに立ち、両手を広げて詩を朗読する時、そこにはブラジルという国の、最も深く、最も美しい魂が顕現する。
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『2月のために 〜マリア・ベターニアとマンゲイラ』が観られるのは…
①劇場開催では、
■1/9(金)『2月のために~マリア・ベターニアとマンゲイラ〜』18:15~
※トークイベント 【登壇者】中原仁、ホベルト松下(サウーヂ)
■1/10(土)『2月のために~マリア・ベターニアとマンゲイラ〜19:00~
※トークイベント 【登壇者】中原仁

②オンライン開催では、2026年1月16日(金)- 2月15日(日)に配信します。
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『2月のために 〜マリア・ベターニアとマンゲイラ〜』
© 2017 DEBÊ PRODUÇÕES / GLOBO / CANAL BRASIL
2017, 74分, 音楽ドキュメンタリー, 年齢制限 なし
2月の街は祝祭の舞台となる──リオのカーニヴァル、バイーアの祈り
2016年、名門エスコーラ・ヂ・サンバのマンゲイラは歌姫マリア・ベターニアをテーマに掲げ、勝利を手にした。映画は、ベターニアやカエターノの語りで、リオとバイーアを往還しながら、リオのサンバ・カーニヴァルと、バイーアのアフロブラジル信仰に基づく祭りの世界が交差する。ベターニアの芸術性が培われた故郷への愛とマンゲイラへの敬意が溢れたドキュメンタリー。
スタッフ
監督: マルシオ・デベリアン
脚本: ヂアナ・ヴァスコンセロス, マルシオ・デベリアン
プロデューサー: ダニエル・ノゲイラ, マルシオ・デベリアン
製作会社: デデ・プロドゥソンイス
共同製作会社: グローボ・フィルミス, グローボ・ニュース, カナル・ブラジル
撮影: ミゲル・ヴァシー, ペドロ・フォン・クリューガー
音響: ダニルソン・カンポス
編集: ヂアナ・ヴァスコンセロス, ABC出演
マリア・ベターニア, カエターノ・ヴェローゾ, マベル・ヴェローゾ, シコ・ブアルキ, レアンドロ・ヴィエイラ, パイ・ポーチ, スケル・ジョルジア, ルイス・アントニオ・シマス, パイ・ジルソン, ジュリア・バスバウン, ニーナ・バスバウン作品の受賞歴
In-Edit Brasil (2018)
最優秀ブラジル映画賞ウルグアイ国際映画祭(2018)
イベロアメリカコンペティション部門 審査員特別賞MUVI国際音楽映画祭(2019)
審査員特別賞