欧州で注目“アラビック・ジャズ・トランペッター”
日本ではまだあまり知られていないが、ヨーロッパでは今、イブラヒム・マアルーフ(「イブラヒム・マーロフ」とも表記)という革命的なトランペット奏者が大活躍をしている。
中東の国レバノンにルーツを持ち、フランスを中心に活動するイブラヒム・マアルーフ(Ibrahim Maalouf)。1980年生まれ。肩書きは“アラビック・ジャズ・トランペッター”だ。
まずはこの少しばかり奇妙なトランペッターのライヴ演奏動画を、どうかじっくり聴いていただきたい…
耳の良い人なら、この動画の主役のトランペット奏者イブラヒム・マアルーフが時折紡ぎ出すフレーズにどこかしら違和感を覚えたはずだ。
そしてトランペットという楽器についての知識を少しでも持っている人なら、彼が使っている楽器の構造に純粋な興味を抱くはずだ。
独自に開発された“微分音トランペット”
通常、トランペットのピストンバルブは3つである。
このバルブの押さえ方によって管長を変化させ、西洋音楽で使われる12の音階を吹くことができるようになっている。
がしかし、このイブラヒム・マアルーフのトランペットには4番目のピストンバルブがある。
そしてこのピストンバルブを彼の左手人差し指が押さえるとき、その奇妙な音が発音される。西洋音楽に慣れ親しんだ人ならあるいはその瞬間「あ、音を外した」と思うかもしれない。
これが微分音と呼ばれるものだ。
微分音とは、西洋音楽でいうところの“半音”をさらに細かく分けた音程のことで、巷の99%以上の音楽には使われないものと考えてもらっていいと思う。
ピアノはそもそも構造的に微分音は出せないし、ギターのチョーキングなどで一時的な微分音を出すことはあるが、その音が落ち着く場所はやはり十二平均律(=1オクターブを12等分した音律)のどこかの音なのだ。
西洋音楽の和声や旋律では、実験的な現代音楽を除いて、基本的に微分音という概念そのものが無視されている。
しかしイブラヒム・マアルーフは、この微分音を確信的にメロディーの中に取り入れている世界的に見ても珍しい音楽家なのだ。
十二平均律に縛られた西洋音楽にアラブ音楽を大胆に取り込んだ
イブラヒム・マアルーフの父親ナシム・マアルーフ(Nassim Maalouf)もまた、パリ音楽院で学んだトランペッターであった。10年間ほどフランスで音楽を学んだ後、故郷のレバノンに戻ったが、そこで音楽学者でもあったイブラヒムの祖父に「10年間も外国で勉強したのに、アラブ音楽をまともに演奏することもできないのか」となじられたことがきっかけで、独力でこの“微分音トランペット”を開発したという。
YouTubeでは、Nassim Maalouf自身による微分音トランペットの解説動画も見ることができる。
そんな父親が開発した微分音トランペットが、息子イブラヒムに受け継がれたというわけだ。
イブラヒムは、西洋音楽で流行りのジャズやジャズロックといったフォーマットの上で、この微分音を鳴らし、聴衆の度肝を抜いてきた。
2013年のアルバム『Illusions』はそんな彼を代表する作品である。
このアルバムで(他のアルバムでも同様だが)、イブラヒム・マアルーフ以外の奏者は皆、普通の西洋楽器を使っている。
バックのブラス隊のトランペット奏者たちの楽器もピストンバルブの数は3つだ。これでは微分音は出せない。
たとえば(3)『InPressi』では、イブラヒムが微分音のフレーズを吹いた後にブラス隊が追いかけるメロディは十二音階の制約の中でそれっぽく表現するといったアラブ音楽と西洋音楽の対比が際立ち、新鮮で面白いものになっている。
冒頭に載せたライブビデオのスタジオ録音が(8)「True Sorry」だ。
楽曲の構造やテーマのメロディは至ってシンプルで耳馴染みも良い。だがそんなバックの演奏の上でイブラヒムの微分音が炸裂するさまは、混合する文化という西洋音楽の拒めない進化の道の一端を力強く見せつけられているように感じるものがある。
『Illusions』はリリース翌年の2014年にはフランスのグラミー賞といわれる「ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュージック」で、全編インスト・アルバムとして史上初の受賞という快挙も達成した。
2019年9月には11番目のスタジオアルバム『SENS』の発売も予定されており、現在はアルバムの一部の曲がApple Musicなどで先行配信されている。
彼が切り拓く“微分音”を取り入れた西洋音楽の行く末に、期待が止まらない。