ジャズへの扉を開いた2枚のアルバム
私がまだ20代はじめの頃、ちょっと背伸びをしてジャズを聴きはじめていた頃。
何も知らないまま、ジャズに詳しい友人に勧められるがままに最初に買ったジャズアルバムが、オスカー・ピーターソンの『We Get Requests』とビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』だった。
どちらも自分が生まれるずっと前、1960年代前半に録音・リリースされたピアノトリオの作品だ。どちらも紛うことなき“名盤”と呼ばれる作品であり、既に遥か昔に揺るぎない評価が確立されていた。ジャズ初心者向けのどんな本にも、この2作品は必ず紹介されている。少し斜に構えがちなオタク気質の私にとって、皆んなが聴いている音楽なんて逆に敬遠しそうなものだが、当時はジャズの「J」の知識もなかったから、皆んながお勧めするアルバムなら間違いないだろうと思って八王子のタワーレコードでこの2作品を買った。
──そしてこの2枚の作品は、私の音楽に対する感性に大きな、とても大きな影響を与えてしまった。
それまで洋楽ロックや流行りのJ-POPばかり聴いていた私にとって、最初に出会ったこの2枚の“ジャズ”は新しい世界への扉を開くまさに革命的な作品だったのだ。
“ジャズ”と呼ばれる音楽を知ってから、それまで聴いていた音楽はまるで子供向けのようなつまらない、刺激のない音楽に途端に成り下がってしまった。
どこかで聴いたことのあるメロディーも恋愛しか歌わない歌詞も、F-G-Em-Amを繰り返すコード進行も、馬鹿の一つ覚えのような4つ打ちのリズムも、
オスカー・ピーターソンのまるで人間業と思えないダイナミックなピアノプレイや、ビル・エヴァンスやスコット・ラファロが魂を振り絞って奏でる叙情に比べれば、何も意味を持たないようなものだと思った(若いな…)。
オスカー・ピーターソン『We Get Requests』
オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson, 1925年8月15日 – 2007年12月23日)の『We Get Requests』は、“鍵盤の帝王”の異名を持つ巨漢のピアニストの1964年の作品だ。当時のヒット曲など、観客からのリクエストの多かった楽曲が収められている。私がその後ハマることになるアントニオ・カルロス・ジョビンの名曲「コルコヴァード」「イパネマの娘」を始め、ジャズのスタンダード曲「酒とバラの日々」、「My One and Only Love」といった楽曲はこの作品で初めて聴いた。
人気曲を多数収録していることもあるためか、オリジナル曲を知らずとも惹き込まれる楽曲と演奏だ。ブロックコードが連続する(2)「酒とバラの日々(Days of Wine and Roses)」はタイトルも含めてジャズの真髄とも思える魅力的な演奏だし、バラードであるはずの(3)「My One and Only Love」でさりげなく、かつこれみよがしに魅せるバカテクにはもう静かにノックアウトされるほかの術がないように思えた。
そしてラストに収録された本作唯一のオスカー・ピーターソンのオリジナル曲「Goodbye J.D.」での超絶技巧を聴いて、そのかっこよさにハマり何度も繰り返し聴き続けた。そして数年後に、彼に影響されたという若き日本人ピアニスト・上原ひろみのデビューアルバムで「The Tom And Jerry Show」を聴いたときに、オスカー・ピーターソンという巨匠の名を想い出すことになったのだ。
ビル・エヴァンス『Waltz for Debby』
ビル・エヴァンス(Bill Evans, 1929年8月16日 – 1980年9月15日)の名盤『Waltz for Debby』は、今でもふと思い出したように聴き返している。
この作品は今でも、ストレスに苛まれ荒んだ私の生活をリセットし浄化してくれる、人生の宝物のようなものだから。
本作はニューヨーク州マンハッタンの名門ジャズクラブ、ヴィレッジ・ヴァンガード(今や日本では、この名をパクった雑貨屋の方が有名だが)で収録されたライヴ盤だ。Wikipediaによると、日本だけでもこれまでに約50万枚を売り上げているらしい。
私も最初は流し聴きだった。
でも何度か聴いているうちに、ピアノのビル・エヴァンス、ベースのスコット・ラファロ、ドラムスのポール・モチアンの3人による掛合いの醍醐味が次第に分かるようになってくる。彼らはリアルタイムで互いの演奏を聴き、自らの演奏で呼応し、常にその時々で最適な音を生み出しているのだ。
人間が奏でる音楽とは、なんと素晴らしいものなんだろう…!
(1)「My Foolish Heart」の出だしのピアノの1音。
ビル・エヴァンスが生まれたばかりの姪っ子のために書いた可憐な(2)「Waltz for Debby」。
何よりも、スコット・ラファロ(Scott LaFaro)というベーシストの音選びの素晴らしさといったら。ヴィレッジ・ヴァンガードでのこの演奏のわずか11日後に、この稀代のベーシストは交通事故によって死んでしまった。
本作でも多くの楽曲で、スコット・ラファロによるベース本来の役割である低音から、時にスパイスのように、そして時にメインディッシュのように変化自在の革新的なベース演奏を聴くことができる。彼のように弾けるベーシストは、この録音から60年を経ようとする現在でも私は他に知らない…。
ライヴ盤ならではだが、この作品にはあまり音楽を聴く気のなさそうな当日の観客たちによる話し声や、グラスの音や、咳払い──そういった雑音が生々しく聴こえる。ヴィレッジ・ヴァンガードを訪れていた彼らの目的は当時そこまで有名ではなかったビル・エヴァンスの演奏というよりも、口説き落としたい彼女とのデートを素敵に演出するためなのだから。演奏の最中で聴こえるおしゃべりから、そしてピアノのサステインが消える前にされるフライング気味の拍手から、それは伝わってくる。
この歴史に残るトリオの演奏中もお構いなくおしゃべりを続ける観客である彼らは、目の前に立つスコット・ラファロというベーシストが11日後に死んでしまうことも、見るからに生真面目そうなビル・エヴァンスというピアニストが後に“時間をかけた自殺”と呼ばれるほどドラッグに溺れて死んでいくことも、おそらくこの時点では知らないのだろう。
…でも、それで良いのだと思う。
ジャズという音楽は、そして歴史というものは、多分そういうものなのだ。