無限の可能性を感じる、インドの気鋭ジャズピアニスト、アヌラグ・ナイドゥ

原点はハルモニウム。クラシックを経てラグタイムにのめり込んだ学生時代

彼の豊かな音楽性が、指から鍵盤に伝えられて一音、一音、丁寧に紡ぎ出されている

インドのジャズ界を牽引するピアニスト、アヌラグ・ナイドゥ(Anurag Naidu, a.k.a. Leprofici)のアルバム『J’ai Fame』から受けるのは、そんな印象だ。

これは、現在32歳の彼が2018年にパリで録音したファーストアルバム。

全7曲中、お馴染みの「Take Five」と「The Song is You」を除く5曲がオリジナルで、パリで引っ張りだこのミュージシャン、ガブリエル・ミドン(Bass : Gabriel Midon)とダミアン・フランソン(Dr: Damien Françon)が参加している。

耳に残るメロウなフレーズが美しいプレリュード「La Lune」

アヌラグは、インドの、彼曰く “町とは呼べないくらい小さい” 集落で生まれ育った。
父は生計のためにエンジニアとして働いていたが、ハルモニウム(手漕ぎオルガン)奏者で、アヌラグが物心ついた頃から、家の中にはいつも音楽があった。

5歳のとき、両親は彼にシタールを習わせようと教室に連れて行ったが、「まだ手が小さすぎて無理」と言われ、代わりにハルモニウムをいじって父の歌に合わせて弾いていたのが、鍵盤との出会いだ。

9歳になると、両親は本格的にピアノを習わせることを決めたが、彼が住んでいた町にはピアノがなく、アヌラグ少年は毎週末カルカッタまで、片道5時間かけてレッスンに通った。

しかしティーンエイジャーになった頃、一家離散など諸事情が重なってレッスンが続けられなくなり、完全に音楽から離れることになる。再開したのは、大学進学のために上京したボンベイ(ムンバイ。地元の人は今でもボンベイと呼んでいる)でのこと。
大学で学んでいたのは統計学だったが、すでにかなりの腕前になっていたピアノで個人レッスンのバイトを始めると、あっという間に生徒が増え、気づけば統計学の分野で就職した同級生よりも高給とりになっていた。そこで音楽を生業とすることを意識するようになる。

当時学んでいたのはクラシックだったが、ラグタイムで有名なスコット・ジョプリン(Scott Joplin)にはまり、ジャズへの扉が開かれた。
彼が惹かれたのは、ジャズならではのアドリブ。
マリアン・マクパートランド(Marian McPartland)やビル・エヴァンス(Bill Evans)のアルバムのソロパートはすべて耳コピした。

マッコイ・タイナーをイメージして書いたという「Hofor」

彼にとって音楽とは、「自分の部屋でひたすら弾くものではなく、みんなでシェアするもの」だったから、仲間を探してトリオで演奏したりもしたが、なんとなく形だけ真似ているだけで、トリオで演奏するとはなにか、その真髄のようなものを自分はつかめていない、という悶々とした思いを抱えていた。そんな時、パリやアメリカのバークリー音楽大学で学んだインド人ピアニストが開催したワークショップに参加する機会があり、自身もパリ行きを決意する。

パリの音楽学校での彼は、
「お腹ペコペコでレストランに行って、前にずらりと料理が並べられたときのような感じ」
で、とにかく目の前にあるものすべてを、手当たり次第に吸収していった。
クラシックでは学位を持ち、申し分ないテクニックを身につけていた彼に講師陣は、「ひとまずテクニックは忘れるように」と言った。
そして、「自分が表現したいものは何か、そしてそれをどうやって表現するのか。それに取り組んでごらん」と説いたという。

「自分が抱いた疑問には、どんなささいなことでも必ず的確な答えが返ってきた。だから僕はひたすら、言われたことを練習した。パリで学んだあの日々は、まるでキャンディー屋さんに連れて行ってもらった子供。どれもこれも欲しいものだらけで、ワクワクしっぱなしだった」

4曲目の「Papillon」は、そのときの講師の一人に捧げた曲だ。

メロウなフレーズが繰り返される「月」というタイトルの冒頭のプレリュードは、パリ留学時代、インドに残してきたガールフレンドを想って書いた曲。はるか遠いヨーロッパの地でひとり、愛しい人に想いをはせて夜空を見上げる切ない情景が浮かぶ。

5曲目の「Take Five」はジャズ愛好家でなくとも一度は聴いたことがある超有名曲だが、独創的なアレンジで、アルバムをミキシングしたエンジニアでさえ、原曲がこの曲だとは気づかなかったという。曲使用にあたり、著作権を問い合わせたときも、
「ほぼ原型をとどめていないから、申請は必要ない」と言われたのだそう。

一聴しただけでは気づかない? 超有名曲「Take Five」の独創的なアレンジ

このアレンジには誕生秘話がある。
インドのバーで演奏していると、からんでくる酔っ払い客が投げてくる定番のセリフというのがあって、これがどうしたわけか、
「オイ!テイクファイブできるか?テイクファイブ弾け!」
なんだそうだ。
バンドメンバーはここで「やれやれ、またこれか」となるのがお決まりのパターン。そこで、自分なりのアレンジで弾いて「いまテイクファイブを弾きましたよ」といったらどんなリアクションが返ってくるか?と実験的にやってみたのがこれだという。

タイトルの『J’ai FAME』は、「おなかがすいた」、を意味するフランス語の J’ai faim の faim   を、名声を意味する英単語の Fame  に置き換えた彼のことば遊びだ。

「パリから帰ったらインドでも活動の場が増えて、みんなに褒められたり、知らないうちに僕は“有名人”になっていた。でも自分では、まだ全然満たされない“ハングリー”な気持ちだった。それで、つづりが似たこの2つの単語を掛け合わせることを思いついた」

インドには、ボリウッド映画やシタールで奏でる古典など、独自の豊かな音楽カルチャーがある分、外来ものであるジャズ文化が発展するのは難しい。YouTube や配信サービスなどで世界中のいろいろな音楽が聴ける時代になったことで、若いジャズミュージシャンも増えているそうだが、
「インドでジャズの中心地と言われるムンバイでさえ、ジャズクラブに生バンドを聴きに行くと、そこで演奏されているのはインド音楽をアレンジしたようなフュージョンなんだ」
と、インド人ピアニストが嘆くのを聞いたことがある。

アヌラグはフュージョンを否定はしない。
ただ、ジャズにインド音楽のエッセンスを加えたものを単純に「フュージョン」とは呼びたくない、という。

「それは僕にとっては、フォアグラとバターチキンカレーを一緒に盛りつけてフュージョン料理です、というようなもの。掛け合わせるなら、インドの古典音楽もしっかり解釈した上で、何を引き出してどうブレンドするかを知る必要がある」

アルバムに参加したドラマーのダミアン・フランソンは、「アヌラグの奏でる音楽にはインド的なニュアンスを感じる」と話していたが、いまはリズム的な要素だけ取り入れているというインド音楽のエスプリを、今後はメロディーラインにも加えていきたいとアヌラグは言う。

インドのライブハウスではフュージョン系も演奏

物事をしっかり掘り下げて解釈しようとする探究心と独創的な感性、それを音として生み出す努力と技術・・・これらを併せ持つアヌラグの可能性は無限大だ。ジャムセッションで聴いた演奏を思い起こしても、彼から出てくるのはまだまだこんなもんじゃない。このアルバムにはおさまりきれていない無数の引き出しを、彼は持っている。

アヌラグは今年ふたたびパリに戻る計画を立てている。

前作から3年。さらに熟成した彼の音楽性を詰め込んだ、待望のセカンドアルバムも期待できそうだ。

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