アストラッド・ジルベルトと米国で受容されたボサノヴァ
アストラッド・ジルベルト(Astrud Gilberto, 1940 – )という歌手がボサノヴァというブラジル生まれの音楽を世界に広めたことに大きく貢献したというのは客観的な歴史的事実だろう。リオデジャネイロで生まれ育ち、1959年にギタリストのジョアン・ジルベルト(João Gilberto, 1931 – 2019)と結婚した彼女はもともと歌手ではなかったが、ひょんなことから「The Girl From Ipanema(イパネマの娘)」を英語で歌うことになってしまい、1964年に発表されたそのシングルは瞬く間に大ヒットし数百万枚を売り上げ、グラミー賞を獲得し、ビートルズの「Yesterday」に次いでカヴァーの多い楽曲となり、このブラジルからやってきた少女のような歌手はその素朴な歌い方も含めて“ボサノヴァ・シンガー”の代名詞のような存在となった。
ボサノヴァと呼ばれる音楽についての一般的なイメージについては、良くも悪くもアストラッド・ジルベルトのその“素人っぽさ”が強い影響を与えている。ブラジルの音楽に深く親しんでいる者を除けば、リリースから半世紀以上経った今もボサノヴァといえばやはりアストラッドが歌う「イパネマの娘」がイメージの根底にあるのではないだろうか。
米国の歌手アン・ウォルシュによる『アストラッド・プロジェクト』
長年サンバやボサノヴァといったブラジル音楽に魅了されてきたという米国マサチューセッツ州出身のシンガー、アン・ウォルシュ(Anne Walsh)もまた、そうしたアストラッド・ジルベルトの影響を受けたひとりだ。2022年の新作『The Astrud Project』で、そうした米国流“ボサノヴァ”への大きな愛を表現している。巧妙に溶け込んだジャズのエッセンス、思慮深く弾かれるピアノ、そよ風のようなフルート、控えめに爪弾かれるガットギター、海と波、花、幸せな感覚……。この作品に収められた音楽は、60年代中頃に晴れてアメリカのポピュラー音楽のひとつとなったボサノヴァそのものである。
レパートリーはアストラッド・ジルベルトによってかつて歌われた楽曲群で、ブラジルの曲もあればアメリカ生まれの曲もある。一部でポルトガル語が使われてはいるものの、ほとんどは英語で歌われる。
良質な“ボサノヴァ・アルバム”だと思う。ただ、アン・ウォルシュのヴォーカルは幾分上手すぎるかもしれない。