ヴェルナー・ハイゼンベルクと不確実性原理
ドイツの物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901 – 1976)は量子力学において重要な発見である「不確定性原理」を提唱した人物だ。
不確定性原理とは、物理学において、相互作用するある物理量の測定精度を高めると、別の物理量の測定精度が必ず低下するという原理で、主には素粒子の「位置」と「運動量」を同時に正確に計測することはできないということを説明するものだ。
このままでは何のことか解りづらいので日常生活に例えるならば、例えば「時間」と「準備」の間にも同様の関係があるということになるらしい。大切な面接のために準備をする時間が増えると、その分、ランチの時間や友人と過ごす時間が減ることになる。逆に友人との時間を増やすために、面接の準備を怠ると、面接での成績が低下する可能性がある。つまり時間と準備の間には、常にトレードオフが存在し、一方を高めるともう一方が低下するという不確定性の原理が働いていると言える。
ハイゼンベルクの影を追う、ドイツのピアニスト
ノーベル物理学賞を受賞するほど優れた功績を残したハイゼンベルクだが、同時にヨーロッパ、特にドイツにおいては思想的にも後世に強い影響を与えた人物として知られている。ナチスの政権下においては「ナチスは大嫌いだがドイツを愛している」ということから葛藤し、相対性理論及びユダヤ人物理学者を擁護する立場を取りながら原爆の開発に関わる(といっても、彼はその開発を意図的に遅延させたと言われている)など、彼が信じるドイツのために働いた。
そして、──この記事においてはおそらく重要なポイントだが──物理学の偉人であるハイゼンベルクは音楽を愛するピアノの名手でもあった。少年時代には将来科学者になるかピアニストになるかを真剣に悩んでいたというほどで、彼がモーツァルトのピアノ協奏曲20番を演奏したレコードも残されている。
前置きが長くなってしまったが、今回紹介するドイツのピアニスト、クレメンス・クリスティアン・ピュッチュ(Clemens Christian Poetzsch)の最新作『Chasing Heisenberg』は、タイトルでわかるようにハイゼンベルクの人生や思想に触発された作品である。
クレメンスは「科学の領域での意味を超えて、不確実性の原則は、はるかに実存的なものにも触れている」と語る。「私たちがインスピレーションと呼んでいる本質的な要素は、誰もが課すことも予見することもできないものなんだ。私たちは一生をかけてそれを追求し、理解しようとし、公式に還元しようとするが、決してその内なる性質に完全に浸透することはできないだろう」
即興を重視した内省的なピアノ
クレメンス・クリスティアン・ピュッチュが今作で表現する美しいソロ・ピアノの音楽は、不確実性原理を表すかのように、予測のできない即興がスリリングな作品だ。安心感のある日常を表現したかと思うと、急激に予期せぬ場面転換を迎えるのはまるで人生そのものだ。
(1)「Helle Welten」から、美しい即興演奏が繰り広げられる。一般的にクラシックのピアニストとして認知されているクレメンス・クリスティアン・ピュッチュだが、これはキース・ジャレットがドイツ・ケルンで残した名盤『The Köln Concert』をも想起させるほど、ジャズを体現している。
この作品を聴いていてハッとしたが、思えばジャズほど不確定性の高い音楽はほかにない。
即興演奏では、その時々の演奏者の感情や周囲の環境変化によって演奏は瞬時に変化し、その予測はほとんどの場合、不可能だ。時間とともに新しい音楽が目の前で出来上がっていく、それがジャズの生演奏なのだ。
ジャズではその不確実性の高さゆえに、結果としてリスナーが瞬時に処理しなければならない情報量は予定調和的な音楽と比較すると格段に増える。アーティストの思考やアイディアを追い、感覚的に受容し、理解できずともそれを感じることで、初めて即興演奏というものを楽しむことができるのかもしれない。
クレメンス・クリスティアン・ピュッチュという稀代のピアニストがハイゼンベルクの名を引用しつつ描き出そうとしたのは、そうした不確実性を楽しむことの純粋な面白さなのだろう。