カエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso)のSNSで、ラニー・ゴルヂンの訃報を知りました。72歳でした。肺炎で入院していたようです。「伝説的ギタリスト」ラニー・ゴルヂン…以下、彼の生涯を簡単ですが紹介して、私からのお悔やみの意を表したいと思います。合掌。
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ラニー・ゴルヂン(Lanny Gordin)として知られ、ブラジルで最も後世に影響を与えたギタリストの1人として認められている Alexander Gordin が、11月28日に72歳で亡くなりました。肺炎のために1か月間入院していました。
ラニー・ゴルヂンは、自身の誕生日の日に亡くなりました。米国の伝説的なギタリスト、ジミ・ヘンドリックスから影響され、ギタリストとしてのキャリアをスタートさせた彼は、トロピカリアの中心的な人物の1人となり、それは、まさにエレキギターがブラジル音楽に導入され始めた時代でした。
1967年のブラジル ── トロピカリア・ムーブメントが形作られていた一方で、サンパウロ市の中心部では、エレキギターに対するプロテストデモがありました。その行進には、エリス・レジーナ(Elis Regina)、ジャイール・ホドリゲス(Jair Rodrigues)、ジェラルド・ヴァンドレー(Geraldo Vandré)、エドゥ・ロボ(Edu Lobo)、それに、トロピカリアの一角であるジルベルト・ジル(Gilberto Gil)自身も参加していました。当時の考え方では、エレキギターの使用は、英語圏の文化に降伏することを意味し、ブラジル音楽が外国からある種の侵略を受けることでした。
ヴァンデルレア(Wanderléa)やホベルト・カルロス(Roberto Carlos)、エラズモ・カルロス(Erasmo Carlos)らのジョーヴェン・グアルダ(Jovem Guarda)の面々の、ビートルズに影響されたサウンドのヒットによって、その考え方はより強化されていました。この意味で、トロピカリア・ムーブメントは、ブラジルの伝統的なポピュラー音楽とガットギターとの関係も、ジョーヴェン・グアルダにおけるエレキギターとの関係も、どちらともを破壊するムーブメントでした。ラニー・ゴルヂンは、ムタンチスのセルジオ・ヂアスと並んで、海外のものの安価な輸入品に聴こえないエレキギターの表現を突き詰めることで、この時代に重要な役割を果たしました。
トロピカリア・ムーヴメントで最も象徴的な楽器を手にしたゴルヂンは、先鋭的なアレンジやソロで傑出し、音楽的な意味において欠かせない存在となっていきました。また、マノエル・バレンベイン(Manoel Barenbein)などの大胆なプロデューサーとの仕事では、当時ブラジルでは珍しかったディストーション(歪み)のテクニックを多用しました。
この流れの最大の節目は、1968年のアルバム『Tropicália ou Panis et
Circencis』で、マノエル・バレンベインとホジェリオ・ドゥプラ(Rogério Duprat)の呼びかけに、トロピカリア・ムーヴメントの中心人物たちが集結しました。ラニー・ゴルヂンは、このアルバムで演奏し、これ以降、彼のギターはブラジル音楽において決定的な存在となりました。
1969年には、ジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾのアルバムに参加。また、エルメート・パスコアール(Hermeto Pascoal)とともに「Brazilian Octopus」に参加しました。エルメート・パスコアールとは、父のアラン・ゴルヂンの経営するナイトクラブ「Stardust」で演奏を重ねてきた仲でした。また、ガル・コスタ(Gal Costa)にとって、ラニー・ゴルヂンは重要な存在で、ジルやカエターノらのバイーア出身のパートナーたちがロンドンに亡命している間、ガルのトロピカリア・ムーヴメントの影響下のアルバム『GAL(1968年)』、サイケデリックからの影響下のアルバム『GAL(1969年)』や、1970年の『Legal』でエレキギターを演奏しました。
ガル・コスタの初期の最高の状態を記録した伝説的ライヴアルバム『FaTal – Gal a Todo Vapor』でも、ラニー・ゴルヂンは演奏しています。しかし、同アルバムの内容のコンサートを行なってる期間中に、ジャイール・ホドリゲス(Jair Rodrigues)のヨーロッパツアーに同行するために、ラニー・ゴルヂンはガルのバンドを離れてしまいました。「ラニー・ゴルヂンの存在は、音楽を支えてくれるもので、非常に重要でした。彼はとても偉大な素晴らしいギタリストでした」とガル・コスタは言っており、自身にとって重要な人物の1人に挙げていました。
1969年のカエターノ・ヴェローゾの「白い」アルバムは、政府に監視されている状況だったので、まずサルヴァドールの小さなレコーディング・スタジオで、カエターノが歌を、ジルがアコースティック・ギターを録音した。そのテープを受け取ったマエストロ、ホジェリオ・ドゥプラは、ラニー・ゴルヂンに「ラニー、自由に、好きなようにやってくれ」という「白紙」の手紙とテープを送り、ラニーがアレンジを進めました。
その頃から、彼のディスクコグラフィーでの記念碑的作品への参加が続きます。1970年、ヒタ・リー(Rita Lee)の『Build Up』に参加、1971年のエラズモ・カルロスの『Carlos, Erasmo』に参加。1972年、亡命から帰国したカエターノとジルと再会し、カエターノの『Araçá Azul』、ジルの『Expresso 2222』の録音に参加。同じく1972年、ジャルズ・マカレーの傑作『Jards Macalé』に参加。チン・マイアのヒット曲「Chocolate」でもギターを弾いていました。
「私には政治的意識がなく、音楽に関心を持っています。トロピカリア・、ムーヴメントやどんな運動も、私には理解する教養がありません」と、彼は以前インタビューで答えていました。
1960年代に、ラニー・ゴルヂンは、サイケデリックの世界に没入するためにLSDを試しました。7回目の服用の後、彼は精神科の助けを求める必要が生じ、統合失調症と診断され、Bela Vista のサナトリウムに入院しました。
その後の数十年間、ゴルヂンは、音楽の世界の日のあたる場所から離れましたが、演奏は止めませんでした。画家のジョゼ・ホベルト・アギラール(José Roberto Aguilar)の主宰する Banda Performática に参加し、1990年代にはシコ・セーザル(Chico César)のライヴ録音アルバム『Aos Vivos』に参加しました。
2001年に、11曲入りの初めてのソロアルバム『Lanny Gordin』を、サンパウロの老舗レコード店「Baratos Afins」のオーナーのルイス・カランカ(Luiz Calanca)のプロデュースでリリース。2002年に、若いミュージシャンたちとバンド「Projeto Alfa」を結成。その中に、現在第一線で活躍するギタリストのギリェルミ・エルヂ(Guilherme Held)がいました。ギリェルミは言います。
「彼は様々な世代にとって偉大な先生であり、私にとってある種、音楽の父のような存在でした」とギリェルミは言います。サンパウロ州郊外からサンパウロ市内に出てきて、ラニーとバンドを結成しました。2人は4年間一緒に住んでいました。「私たちは一日中音楽を共有していました。それが私の人生とキャリアを変えました」
これらのことが繋がって、2007年に『Lanny Duos』というアルバムが生まれました。トロピカリアの仲間であった、ジル、カエターノ、ガルや、そのキャリアを通じて知り合ったアドリアーナ・カルカニョット(Adriana Calcanhotto)、アルナルド・アントゥニス(Arnaldo Antunes)、シコ・セーザルが参加しています。
2017年、〝伝説のギタリスト〟ラニー・ゴルヂンは、グレゴーリオ・ガナニアン(Gregório Gananian)監督によるドキュメンタリー映画『Inaudito』で、自身のキャリアについてカメラの前で語りました。
近年、ラニー・ゴルヂンは、ギラン・バレー症候群や強直性脊椎炎(背骨の関節に炎症が起こり、寝たきりになる病気)の治療と向き合わなければならなりませんでした。彼はメディアに、「心配はない」と言ってました。
最後の作品となったのは、2014年に録音された『Lanny’s Quartet & All Stars (2014)』。また、サンパウロの才能、トゥリッパ・ルイス(Tulipa Luiz)が2015年にリリースしたアルバムに収録された楽曲「Expirou」でも、ラニー・ゴルヂンの演奏がフィーチャーされていました。
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