イスラエルの女性ピアニスト、Dina Kitrossky デビュー作『Waves』
未だ聴いたことのないようなジャズ体験をしたいなら、この作品を強くおすすめしたい。
イスラエルのピアニスト、ディナ・キトロスキー(Dina Kitrossky)のデビューアルバム『Waves』は2023年の年末にリリースされた。
彼女のピアノはマカーム(アラビア音楽の旋法)を取り入れた音楽を弾くために特別な調律が施されており、微分音が特徴的な強く印象に残る旋律を奏でる。それは聴衆の興味関心を引くための姑息な戦術などではなく、その深い音楽の先には西洋のクラシックや中東の民族音楽、彼女の両親が聴いていたロシアの音楽、その他様々な世界中の音楽を経由して辿り着いた彼女の独創的な視点から生まれる、音の芸術の未来の兆しがある。
とにかく、音を聴いてもらうのが手っ取り早い。トランペッターのタル・アブラハム(Tal Avraham)をフィーチュアした(1)「In Between」は右手で弾くいくつかの音に特徴的なマイクロトーン(微分音)があり、西洋音楽に慣れた耳には違和感を感じてしまうが、その違和感は同時に西洋音楽的な平均律の音楽を“正しい音楽”として信じてしまっていたのではないか、という疑念を抱かせる。音楽は本来自由なものであるはずなのに、幼少期からの教育や、日常の単純接触効果によって無意識のうちに刷り込まれてしまっている音楽に対する固定観念に気づかせてくれるのだ。
アルバムには微分音調律のピアノのほか、“一般的な”平均律のピアノによる曲も収録されているが、やはり今作では前者の楽曲を強く推したい。ケマンチェ1奏者のヤーラ・ベーリ(Yaara Beeri)をフィーチュアした(5)「Karati」はまだ実験段階である印象は受けるものの、その独創性は高く評価されるべきだろう。
文末にクレジット(これは独自調査によるもので、おそらく完璧なものではない)を記載したように、本作は楽曲ごとに多彩なミュージシャンを迎え入れており、前述のようにピアノの調律さえ平均律だったりマイクロトーナルだったりとポートフォリオ的になっている印象もあるものの、よく言えばそれが彼女の多彩さなのだろうと思う。
今作の制作を開始して以来、ディナ・キトロスキーは2回の出産や新型コロナによるパンデミック(cf. (8)「COVID Funk」)、そして自国の戦争という環境の激変を経験してきた。この驚くべき作品が生まれた背景として、こうした情報も大きな意味を持っている。
ディナ・キトロススキーの創作の重要なパートナーとして、今作の多くのトラックで演奏しているベーシストのベン・ダンシグ(Ben Dancyg)が挙げられる。
ベン・ダンシグはイスラエル南部のキブツ・ニル・オズ2出身で、2023年10月7日のハマスの襲撃によって村の多くの人間が殺害され、彼の父親でナチスによるホロコーストを研究する著名な歴史学者/農業家であるアレックス・ダンシグ(Alex Dancyg / Alex Danzig)もハマスによって拉致され、2024年にガザで殺害されてしまっている。
Dina Kitrossky 略歴
ディナ・キトロスキー(ヘブライ語:דינה קיטרוסקי)は12歳の時にピアノに夢中になった。彼女にピアノの弾き方を教えてくれたのは、新たにイスラエルに移民としてやってきた両親の知り合いの薬剤師だったという。
兵役後、彼女はエルサレムの音楽アカデミーに入学し、そこでマカームなどそれまであまり知らなかった音楽に触れ、魅了された。
学業を終えてからは、ハイテク業界で働きながら映画音楽やゲーム音楽の作曲で経験を積んだ。2023年にデビュー作となる本作『Waves』をリリース。ほかにピアノとウードのデュオ「PianOud」でも作品を発表している。
特徴的な微分音のピアノは、クラシックを中心に活躍する作曲家/ピアニストのロネン・シャピラ(Ronen Shapira)が開発したピアノの弦に簡単に取り付けられるアタッチメントである「Oriental Bender」によって実現している。
- ケマンチェ(kemanche)…ペルシャからトルコ、ギリシャまで広く演奏されている伝統的な擦弦楽器。ヴァイオリンの源流ともなったことで知られている。ケマンチャ、ケメンチェとも。楽器の名前はペルシア語で「小さな弓」を意味するケマンチェ(kemanche)に由来する。 ↩︎
- キブツ・ニル・オズ(Nir Oz)…イスラエル南部のキブツ(農業共同体)。2022年の人口は380人。パレスチナの過激派組織ハマスが2023年10月7日の早朝に侵攻した結果、住民の約4分の1が殺害または人質に取られるという虐殺事件の舞台となった。 ↩︎
Dina Kitrossky – piano
Ben Danzig – bass
Assaf Engel – drums
Tal Avraham – trumpet
David Michaeli – bass
Yaara Beeri – kemanche
Liad Mor – bass
David Carnicer – bass
Ioram Linker – saxophone
Ittai Binnun – ney
Dor Bar Av – drums
Roy Brosh – drums
Serhan Baki – percussion
Serhan Baki – tabla
Dani Shaviv – guitar
Senya Malikin – guitar