ソロピアノの新たな名盤
ジャズのソロピアノの名盤をテーマにしたとき、あなたはどんなアルバムが思い浮かぶだろうか?
私にとってのそれは、キース・ジャレット(Keith Jarrett)が慢性疲労症候群の闘病中に自宅で録音した『The Melody At Night, With You』であり、ジョヴァンニ・ミラバッシ(Giovanni Mirabassi)が世界中の歴史的な曲に想いを爆発させた『AVANTI!』であり、エグベルト・ジスモンチ(Egberto Gismonti)の人智を超えた芸術性に圧倒される『Alma』だったりするのだが、これらはいずれも作品を聴いた瞬間からその世界に惹き込まれ、ピアニストと精神的に一体となったような深淵としか言いようのないリスニング体験ですぐに“特別な作品”だと感じたものだった。
そして、そんな“ソロピアノの名盤”に新しい作品が加わった。
イラク、モロッコ、ポーランドにルーツを持つイスラエルのピアニスト、ガイ・ミントゥス(Guy Mintus)がコロナ禍から温めてきたプロジェクトであり、イスラエルの音楽に焦点をあてた『The Great Israeli Songbook』だ。キャッチーだが心に残る美しいメロディーから、中東特有のマカームの旋律まで、イスラエルに伝わるバラエティ豊かな名曲を天才的なピアノで吟遊詩人のように現代に伝えている。ユダヤ系、アラブ系をはじめとした様々な民族が共生するイスラエルの社会の中で、「Our Journey Together」に象徴されるように多様性を尊重する社会の在り方に強い共感を示してきた彼が、先人たちの様々な想いが込められた“イスラエルの偉大な音楽”を、自由な想像力による即興を主体とした卓越したピアノで表現し、後世へと伝えようとしている。
2枚組、82分におよぶ感性豊かなソロピアノ
イスラエルの楽曲を演奏するという企画は、世界的な感染症の流行によって、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルの受賞などで国際的に認知され世界を飛び回り演奏していたガイ・ミントゥスが突然自宅に閉じ込められた2020年に始まった。彼はオンライン配信でのピアノ演奏を企画し、そこで視聴者からのリクエストを募るようになった。このライヴは世界中で観られたが、ガイ・ミントゥスにとって母国イスラエルの先人たちの楽曲のリクエストが特に心に響いたようだ。視聴者もその演奏に感動し、「スタジオ録音を聴きたい」という声が増えていった。
彼はクラウドファンディングを通じて“イスラエルの楽曲”のテーマでファンからの募集を募ったが、すぐには実現せず、それがコロナ禍が明けた2025年にようやくリリースに至ったというのが今作の背景である。
(1-1)「The Purple Dress」はロシア生まれで20歳の頃に家族とともにパレスチナに移住し、イスラエルを代表する作曲家として活躍したサーシャ・アルゴフ(Sasha Argov, 1914 – 1995)の曲。ガイ・ミントゥスのクラシックの素養も強く感じさせるピアノの自由な即興演奏がとにかく素晴らしい。原曲はポーランド出身の詩人ハイム・へファー(Haim Hefer, 1925 – 2012)による、紫色のドレスを着た女性への憧れをテーマにした愛や若さ、ノスタルジーを詩的に描写した歌詞が印象的な楽曲。
(1-2)「Kshe׳Tigdal」はイェフダ・ポリケル(Yehuda Poliker, 1950 – )作曲、ヤコブ・ギラッド(Yakov Gilad, 1951 – )作詞によるもので、ホロコースト生存者の2世という立場からトラウマと記憶の継承をテーマにした作品として知られる、イスラエルにおいて重要な楽曲と位置付けられているもの。
(1-4)「Brit Olam」はイスラエルを代表するSSWマティ・カスピ(Matti Caspi, 1949 – )の代表曲。原曲はパートナーとの深い愛と永遠の絆を詩的に歌ったロマンティックなバラードで、ガイ・ミントゥスの演奏も思索的だ。
(1-5)「Nifradnu Kakh」はアヴネル・ガダシ(Avner Gadasi, 1952 – )による1970年代初頭のヒット曲。1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)の直前で、イスラエル社会が比較的安定し、ポピュラー音楽が個人的な感情や恋愛をテーマに多様化していた時代背景の中で生まれた曲である。
(1-9)「Ani Gitara」(私はギター)はイスラエルの国民的作詞作曲家であるナオミ・シェメル(Naomi Shemer, 1930 – 2004)の代表曲で、ここではガイ・ミントゥスは弾き語りで情感豊かに歌い上げている。
(2-1)「Atur Mitzkhekh」はヨニ・レヒテル(Yoni Rechter, 1951 – )が作曲し、国民的歌手アリク・アインシュタイン(Arik Einstein, 1939 – 2013)によって歌われた1970年代後半のヒット曲。ヨム・キプール戦争(1973年)の後の社会的変動を経て、イスラエルが文化的・音楽的に多様化し、ポピュラー音楽が個人的な感情や芸術性を探求していた時代に世に出た楽曲で、現在まで歌い継がれているもの。
(2-3)「Layla」はイスラエルを代表する男性SSWシャローム・ハノフ(Shalom Hanoch, 1946 – )が14歳の頃に初めて書いた曲。
ナタン・アルテルマン(Nathan Alterman, 1910 – 1970)の詩をもとに、サーシャ・アルゴフが作曲した(2-4)「Elifelet」もイスラエルの歴史にとって重要な意味を持った曲だ。1948年頃、イスラエル建国直後の戦争(第一次中東戦争、イスラエル独立戦争)中に、ナハル・バンド(軍楽隊)や軍事関連のパフォーマンスで初演されたもので、後にアリク・アインシュタイン(Arik Einstein)やシェム・トヴ・レヴィ(Shem Tov Levi)がカヴァーしたことで広まった。この曲はイスラエルの軍事文化とその犠牲を痛烈に批判する象徴的な作品で、エリフェレットという名の、自分の周りで何が起こっているのか理解ができない、誠実かつ不器用な若い兵士の物語を通じて、戦争の犠牲と英雄主義をブラックユーモアと皮肉で描く。ここでのガイ・ミントゥスの魂の叫びのようなソロピアノは凄まじいものがある。続くミズラヒ(中東系ユダヤ)音楽の代表作として知られ、弾き語りで演奏される(5)「Nakhon LeHayom」への流れは本作のひとつのハイライトだ。
エリフェレットの歌を歌いましょう
(2-4)「Elifelet」
みんなで声を合わせて
まだ幼かった頃から
彼は大きな不運を背負っていた
近所の人々は彼を批判し
「何をしても無駄だ」と言った
「エリフェレットには全く気骨がない
彼には少しの気骨もない」
おもちゃを取られても
彼は困惑したまま微笑む
なぜ微笑むのか
どうして、なぜ、どのようにそうなのか分からないまま
そして不思議なことに、彼の周りでは
何かが鳴り響き、歌っているよう
なぜもなく、どうしてもなく
どこでもなく、どのようでもなく
どこへでもなく、どちら側からでもなく
いつでもなく、どこでもなく、どれほどでもなく
バイオリンや笛のように周りに
明るく鳴り響くメロディー
説明したところで何の意味があるだろう
エリフェレット、あなたはどんな子供なのか
戦いの夜、火の轟音の中
部隊の中で声が伝わった
「前線の陣地が孤立している
弾薬が尽きてしまった」
エリフェレットは感じた
弾薬を補給しなければならないと
そして彼には全く気骨がないので
彼は直接砲火の中を這って行った
傷つき、茫然と戻ってきた彼は
倒れ、膝をつき、微笑んだ
なぜ微笑むのか分からないまま
どうして、なぜ、どのようにそうなのか
そして不思議なことに、仲間たちの心の中で
何かが鳴り響き、歌っているよう
なぜもなく、どうしてもなく
どこでもなく、どのようでもなく
どこへでもなく、どちら側からでもなく
いつでもなく、どこでもなく、どれほどでもなく
バイオリンや笛のように周りに
明るく鳴り響くメロディー
説明したところで何の意味があるだろう
エリファレット、あなたはどんな子供なのか
そして鉄のヘルメットをかぶった夜
天使ガブリエルがゆっくりと降り立ち
丘の砦に横たわっていた
エリファレットのもとへ近づいた
彼は言った「エリフェレット、恐れるな
エリフェレット、恐れず強くあれ
天では私たちはあなたに満足している
あなたに少しの気骨もないけれど」
これは単純で不思議な歌
始まりも終わりも続きもない
私たちはなぜ歌っているのか分からないまま歌う
どうして、なぜ、どのように、それはなぜなのか
Guy Mintus 略歴
ガイ・ミントゥス(「ガイ・ミンタス」との表記も見られるが、発音は「ミントゥス」が近い)は1991年イスラエル生まれのピアニスト/作曲家。イラク、モロッコ、ポーランドに家系のルーツを持っている。
彼は9歳の頃に国立研究所のテストで上位1.5%の非常に才能のある子供として認められたという。13歳のときにセロニアス・モンクのアルバム『Thelonious Himself』でジャズに魅了され音楽家の道を決意。テルマ・イェリン国立芸術高校を卒業後、徴兵され兵役に就いている間もイスラエル音楽院のジャズ科で学び(イスラエルには男女ともに2〜3年間の徴兵制があるが、音楽の才能が認められた者は特別に徴兵中でも音楽を学べるコースが用意されているようだ)、奨学金を得てNYのマンハッタン音楽学校に渡った。
現在はイスラエルとNYの二つの拠点を中心に活動しており、イスラエルのウード/打楽器奏者イノン・ムアレム(Yinon Muallem)との2015年作『Offlines Project』でアルバムデビュー。2017年に初リーダー作『A Home in Between』(冒頭に紹介したMVの「Our Journey Together」は本作に収録)、2019年に『Connecting the Dots』をリリースしている。
彼のピアノは強い好奇心が現れた独特のスタイルが印象的だ。
イスラエルの伝統音楽のほかにも、インド音楽、スペインのフラメンコ、トルコのマカーム、それにクラシック音楽やロックまでもが彼のジャズの即興美学の糧になっている。
Guy Mintus – piano, vocal