素直に感情表現する珠玉の現代ジャズ、Sasha Berliner『Fantôme』
アメリカ合衆国の気鋭ヴィブラフォン奏者、サーシャ・ベルリナー(Sasha Berliner)はフランス語で「幻影」を意味するタイトルの新作『Fantôme』で、音楽を自由に表現し、伝統や現代性といった二元論にとらわれず、純粋に「あるがまま」の音楽を受け入れることを訴えている。ジャズという音楽は遥か昔からとかく批評の対象となり、外野によってあるべき姿、あるべきでない姿を語られ、それがある種の権威性に結びついたりする悪しき伝統があるが、彼女は従来の価値観に捉われカテゴライズをするのではなく、音楽をあるがまま受け入れてほしいと願う。
ビリー・ストレイホーン(Billy Strayhorn, 1915 – 1967)作曲の(1)「UMMG」(Upper Manhattan Medical Group)の斬新な解釈と演奏は、その宣言を際立たせる。彼女も通ってきた“ジャズ教育”の真髄でもあったこの古いスタンダード曲を、リハーモナイズやリズムの置き換えといったアプローチで破壊・再構築し新たな芸術として提示。力強いアレンジと演奏に、彼女なりのジャズ観が凝縮されている。
伝統を無視せよ、棄てよ、と言っているわけではない。伝統を学ぶことの意義を充分に承知した上で、彼女はこんな疑問を問いかけている:
一体何がジャズ史として紹介されているのでしょうか?ジャズ史の正典とも言える書籍は山ほどありますが、それらはジャズ界における女性の貢献を完全に無視1したり、70年代に起こったこと2を完全に無視したりしています。しかし、もし私たちが今日でもジャズを演奏しているのであれば、そのようなことを言うことには一体何の意味があるのでしょうか?
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(2)「Khan Younis」は、パレスチナ・ガザ自治区南部最大の都市であるハーン・ユニス3をタイトルに据えている。
この曲はサーシャ・ベルリナーの中東地域における人道的危機に対する強い憂いや、この地域の戦争における米国大統領が示す姿勢に対する深い懸念を表現しており、感情を爆発させるヴィブラフォンの音色や、ピアノのテイラー・アイグスティ(Taylor Eigsti)による強い憂いのピアノソロによって非常に繊細に表現されている。楽曲はシングルとしてもリリースされ、その収益は国連の「パレスチナ占領地域人道基金」に寄付された。
サーシャ・ベルリナーが語るところによると、(4)「The Worst Person in the World」に政治的な意図はないようだ。この曲は同名のノルウェー映画(邦題:『わたしは最悪。』, 2021年)にインスパイアされたもので、「変化していく関係性、決して適切な時期に訪れることのない不治の病と喪失の始まり、そしてそのすべての終わりに私たちがいかにして自分自身に立ち返るのかを描いた、非常にリアルな映画」に感銘を受けたことで書かれたものだ。
”ジャズ・ヴィブラフォンの未来“ Sasha Berliner 略歴
サーシャ・ベルリナーは1998年に米国サンフランシスコで生まれた。最初はロックバンドのドラマーとして音楽家のキャリアをスタートさせたが、オークランド・スクール・フォー・ジ・アーツのジャズプログラムで学んだことをきっかけにヴィブラフォン奏者になった。2016年にニューヨークに移りニュースクールに入学。ステフォン・ハリス(Stefon Harris)に師事し、2019年には初のリーダー作『Azalea』をリリースし、Rising Stars Jazz Awardを受賞。同じくステフォン・ハリスに学んだ2歳年上のジョエル・ロス(Joel Ross)らに並び“ジャズ・ヴィブラフォンの未来”とまで呼ばれるほどの存在感を放っている。
Sasha Berliner – vibraphone, percussion
Taylor Eigsti – piano, keyboards
Harish Raghavan – bass
Jongkuk Kim – drums
Guests :
David Adewumi – trumpet (3, 6)
Rico Jones – saxophone (3)
Lex Korten – piano (6)
- ジャズ界における女性の貢献…史上最も売れたと言われるジャズのソングブック『The Real Book』にはジャズのスタンダードと呼ばれる400曲が収録されているが、そのうち399曲は男性が書いた曲で、女性が書いた曲は1曲のみだった。こうした状況に対して、世界的なドラマーとして知られ、バークリー音楽大学で教鞭をとるテリ・リン・キャリントンは疑問を提起した。 ↩︎
- 70年代に起こったこと…1960年代後半から70年代にかけて勃興した“フュージョン”と呼ばれる音楽に、世界は夢中になった。ジャズは他の音楽ジャンルと融合し、商業的・音楽的に大きな変革を遂げた時代だ。その中心にはトランペット奏者のマイルス・デイヴィス(Miles Davis, 1926 – 1991)がおり、ほかの多数の有力な”ジャズ・ミュージシャン”が所謂“フュージョン”の分野で活躍・商業的に成功したことで、一部において“ジャンルの分断”を巻き起こした。 ↩︎
- ハーン・ユニス…パレスチナ・ガザ地区南部最大の都市。約20万人の人々が住んでいたが、2023年以降のガザ・イスラエル戦争によって街の大部分が破壊された。 ↩︎