微分音トランペッター、イブラヒム・マアルーフ新譜が登場
物理的に唯一無二の“微分音トランペット”を駆使し、ジャズにアラビックな感覚を持ち込み世界的な人気を博すイブラヒム・マアルーフ(Ibrahim Maalouf)の新譜『S3NS』がリリースされた。
基本的なサウンドはこれまでの彼の路線の延長線上という感じで、西洋音楽にアラビックな微分音トランペットが被さるというスタイルは変わっていないが、ゲストとしてアロルド・ロペス・ヌッサ(Harold López-Nussa)やアルフレッド・ロドリゲス(Alfredo Rodriguez)、ロベルト・フォンセカ(Roberto Fonseca)といったキューバのジャズピアニストの参加が目立ち、従来の作品に比べるとラテン感覚が強調され、より音楽的な幅が広がった印象を受ける。
(1)「Una Rosa Blanca(一輪の白いバラ)」はスピーチのサンプリングを挟み、途中からラテンパーカッションとアロルド・ロペス・ヌッサのピアノが牽引する展開になるなど、これまでのイブラヒム・マアルーフの作品には見られなかった新境地を魅せる。
イブラヒムがロサンゼルスのビーチで書いたという(6)「N.E.G.U」は“スーパー・マリオ・ジャズ”が話題となったアルフレッド・ロドリゲスがピアノで参加。
これほどまでにラテン音楽に傾倒した作品はなかっただけに、イブラヒム・マアルーフの今作は驚きを持って迎えられるだろう。
アラブのアイデンティティを忘れない彼が、なぜラテンアメリカに想いを寄せたのだろう
イブラヒム・マアルーフ(別表記:イブラヒム・マーロフ)はトランペッターの父親、ピアニストの母親のもと1980年にレバノンの首都ベイルートに生まれた。叔父は1998年の著書『アイデンティティが人を殺す』が2019年にようやく邦訳され、話題となっている著述家アミン・マアルーフ(Amin Maalouf)だ。この家系からも文化的素養の高さが伺える。
少年時代、レバノン内戦中にフランス・パリに移住した彼は20歳前後で既に父親が開発した特殊なトランペットを武器に、ハンガリー国際トランペットコンクールでの最優秀賞をはじめ15もの賞を受賞している。
フランスから世界的な名声を得ていく過程において、イブラヒムは常に自身のアイデンティティを見失うことはなかった。彼が手に持つ微分音トランペットは、バックバンドが奏でる12平均律という西洋音楽の呪縛から解放されたような斬新なフレーズを鳴らし続けた。それは、11枚目のアルバムとなる今作でもしっかりと引き継がれている。
10分近い大作であるラストの(9)「Radio Magallanes」は、南米チリのサルバドール・アジェンデ大統領がピノチェトによるクーデターに倒れる直前に国民に向けた最後の演説(1973年9月11日)を中心に構成されている。
ラテンアメリカでは「9.11」といえば2001年のアメリカ同時多発テロ事件ではなく、この1973年のチリ・クーデターが想起されることが多いという。
──残念ながら私には、レバノンに生まれ戦火の中フランスに逃れ、音楽で自らの出生を表現し続けるイブラヒム・マアルーフが、今回なぜこれほどまでにラテンアメリカに想いを寄せたのか、それを知り考察するだけの知識はない。
それでもこの『S3NS』は、世界各地で俄かに湧き出してきた行き過ぎたアイデンティティの愚かさを指摘し、人間の多様性を肯定する叔父アミン・マアルーフの著作とあわせ、視野狭窄気味の現代社会について思いを巡らさせるには充分すぎるほどの稀有な音楽作品だ。