バーレーン系女性ジャズ・トランペット奏者、ヤズ・アハメドが切り拓くアラビック・ジャズ新境地

Yazz Ahmed - A Paradise In The Hold

ヤズ・アハメド、バーレーンの伝統にインスパイアされた新作

ロンドンを拠点に活動する女性トランペッター/作曲家のヤズ・アハメド(Yazz Ahmed)が、自身のルーツである中東の島国バーレーンの伝統的文化にインスパイアされた新作『A Paradise In The Hold』をリリースした。真珠産業に従事する労働者やアラブの女性達の強さを祝い、また数曲で自身の作品として初めて歌手とのコラボレーションも行うなど、アラビック・ジャズの新たな境地を切り拓いた作品となっている。

壮大な叙事詩を思わせる(1)「She Stands On the Shore」は、ヤズ・アハメドが2014年にバーミンガム・ジャズラインズのフェローシップの一環として作曲し、2015年10月にバーミンガムのCBSOセンターで初演された全9楽章、90分におよぶ組曲『アルハーン・アル・シドゥリ』(Alhaan Al Siduri)のメインテーマを再構築したもの。「シドゥリ」とは、古代メソポタミアの叙事詩『ギルガメシュ叙事詩1』に登場する、海辺の島に住む知恵深い女神であり、彼女はこの島をバーレーンと重ねて作品を創り上げた。なかでも特にバーレーンの真珠採り漁師の労働歌や、女性の打楽器グループが歌う伝統的な結婚式の歌がインスピレーションの源となっており、そのコンセプトは今作の基幹として発展的に受け継がれている。

(1)「She Stands On the Shore」の演奏とインタビュー

(2)「A Paradise In The Hold」や(8)「Though My Eyes Go To Sleep, My Heart Does Not Forget You」は手拍子とともに歌う真珠採りの潜水夫たちの歌にインスパイアされた曲だ。バーレーンでは紀元前2000年頃より真珠採取業2が盛んで、多くの労働者たちが真珠産業に従事していた。ヤズ・アハメドはバーレーン人としてのアイデンティティを探る中で同国の人々の多くが携わってきた真珠産業に強い興味を抱き、注意深く研究を重ね、自身の音楽表現に昇華。ここでは不穏に加工されたフィールド・レコーディング、フィジーリ3と呼ばれるポリリズミカルな手拍子やダラブッカのリズムに乗せて、アラビックなトランペットの旋律を激情的に、そしてどこか悲しげな音色で奏でる。

(2)「A Paradise In The Hold」

幼少期をバーレーンで過ごしたヤズ・アハメドは1990年代初頭の湾岸戦争も同地で経験しており、彼女の公式サイトには次のような記述がある:

幼少期の楽しい思い出はたくさんあるが、その多くは紛争の影に隠れている。「ガスマスクを着けて学校に行けなかったこと。みんなの家のガレージで学校に通っていました」と彼女は言う。「爆弾の脅迫があるとサイレンが鳴り、カーテンを閉めて電気を全部消し、有毒ガスが入らないように浴槽の排水口をふさいだのを覚えています」

yazzahmed.com

今作はこうしたバーレーンでの幼少期の経験と、彼女の文化的アイデンティティの探求に深く根ざしている。組曲『アルハーン・アル・シドゥリ』とパンデミックを経た彼女の10年間の劇的かつ創造的な時間の集大成だ。

ベルギー・ブリュッセルのモロッコ人街で育ったユダヤ系でムスリムのナターシャ・アトラス(Natacha Atlas)や、トルコにルーツを持つイタリア出身のブリジット・ベラハ(Brigitte Beraha)、クロアチア出身のアルバ・ナシノヴィッチ(Alba Nacinovich)といった歌手の参加は今作の象徴的な出来事だろう。(4)「Her Light」でのアラビア語の歌唱、イスラム文化圏ではタブーとされる“躊躇う花嫁”をテーマとした(6)「Dancing Barefoot」など、これまでのヤズ・アハメドの作品では見られなかった歌による表現は、彼女の音楽を新たなステージに引き上げることに貢献していることは間違いない。

1:44と短いながらも印象的な(7)「Into The Night」は女性の社会的な独立を祝うもので、高揚感のあるドラムのリズムやハンドクラップ、そしてフィールドレコーディングによる声が祝祭感を醸し出す。

伝説的なドラマー、マーティン・フランス(Martin France, 1964 – 2024)の参加も特筆しておきたい。彼はマンチェスターで育ち、12歳から労働者クラブでオルガントリオと共に歌手のバックを務め音楽活動を開始。1983年にロンドンに移り、ECMレーベルでの録音キャリアを始め、以降100枚以上のアルバムに参加し、長い闘病の末、2024年9月5日に60歳で自宅で息を引き取った。
(8)「Though My Eyes Go To Sleep, My Heart Does Not Forget You」などは、彼の貢献がなければ成り立たないほど素晴らしいドラミングを聴くことができる。

Yazz Ahmed 略歴

ヤズ・アハメドは1983年英国に生まれ、生まれてすぐに父親の故郷である中東バーレーンに移住した。9歳で母親と姉妹とともに再び英国に戻り、新しい学校で楽器を学ぶ機会を与えられたとき、彼女は1950年代にトランペット奏者として活躍した母方の祖父テリー・ブラウン(Terry Brown)の影響もあり、トランペットを選んだという。

その後トランペット奏者として驚くべき上達を見せた彼女は、レバノンのウード奏者ラビ・アブ・カリル(Rabih Abou-Khalil)のジャズとアラブ音楽が融合した1992年のアルバム『Blue Camel』に出会い衝撃を受け、自身のルーツでもあるアラブ音楽へ傾倒していき、現在のアラビック・ジャズのスタイルを築き上げていった。

そのキャリアは輝かしく、これまでにレディオヘッド(Radiohead)、スウィング・アウト・シスター(Swing Out Sister)、ジョン・ゾーン(John Zorn)、タレク・ヤマニ(Tarek Yamani)、秋吉敏子など国もジャンルも超えて多数のミュージシャンと共演を重ねてきている。

2011年のデビューアルバム『Finding My Way Home』以降、彼女が一貫して追求しているのは自身のルーツであるアラブ音楽と現代ジャズの融合だ。彼女は小柄だが、誰に流されるでもなく常に自身の音を力強く表現し続けている。

Yazz Ahmed – trumpet, flugelhorn, handclaps, programming, ululations
George Crowley – bass clarinet, handclaps (2, 8)
Ralph Wyld – vibraphone, marimba (1, 8), handclaps (2, 8)
Naadia Sheriff – Fender Rhodes (1, 2, 3, 4, 6, 8, 10), piano (4, 6, 9), Roland JX-03 (1, 10), handclaps (2, 8)
Dudley Phillips – bass (1, 2, 3, 6, 8, 10), handclaps (2, 8)
Martin France – drums, handclaps (2, 8)
Corrina Silvester – percussion, handclaps (1, 2, 7, 8)
Alcyona Mick – Fender Rhodes (4, 5, 9)
Samuel Hällkvist – guitars (2, 4, 9)
Dave Manington – bass (4, 5, 9)
Natacha Atlas – voice (1, 4, 8)
Brigitte Beraha – voice (3, 4, 5, 6), handclaps (2, 8)
Randolph Matthews – voice (3, 9, 10)
Alba Nacinovich – voice (6, 8)
Jason Singh – voice (9), additional programming (2, 3, 5, 8, 9)
Samy Bishai – violin (1)
Noel Langley – flugelhorn (2, 4), handclaps (7), additional programming (1)
Engineer Family – chatter, ululations (7)

  1. ギルガメシュ叙事詩…紀元前2100年頃の古代メソポタミアで成立した世界最古の叙事詩。シュメール、バビロニア、アッシリア文化にわたり、ウルク王ギルガメシュの冒険と友エンキドゥとの絆、永遠の命を求める旅を描く。洪水神話など後の聖書にも影響を与えた。 ↩︎
  2. バーレーンの真珠産業…紀元前2000年頃から始まったとされる、バーレーンにおける古来からの基幹産業。石油が発見される以前、ペルシア湾地域は天然真珠の主要な産地として知られており、特にバーレーン近海で採れる真珠はその高い品質で評価されていた。しかし20世紀初頭の日本の真珠養殖技術の発展や、1930年代の世界恐慌によりバーレーンの真珠採取業は壊滅的な打撃を受け急速に衰退した。 ↩︎
  3. フィジーリ(fijiri)…ペルシャ湾岸地域のバーレーンやカタールなどで発展した伝統的な音楽形式であり、複合的なリズムはその中心的な要素。主に真珠採り漁師たちの労働歌として生まれ、海との深い結びつきを持つ文化を反映し、単なる音楽的パターンではなく、労働や儀式、自然のリズムと調和する生活の一部として機能する。 ↩︎

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