今、“MPBの異端児”セルジオ・サンパイオが再評価されている

優れた音楽を発表しながら、商業的に成功せず“異端”(maldito)と呼ばれたセルジオ・サンパイオ(Sérgio Sampaio, 1947 – 1994)への再評価の機運が高まっている。ブラジル・エスピリトサント州出身のシンガー・ソングライターであるセルジオ・サンパイオは、軍事独裁政権による弾圧という社会背景の中で資本主義や音楽業界の商業主義、社会規範への反抗を基軸とした歌詞をサンバやショーロに根差したロック、ブルースにのせて歌い、デビュー作『Eu Quero É Botar Meu Bloco Na Rua』などで1970年代にブラジル国内の文化的な音楽シーンの中で注目を集めたが、その後のキャリアはアルコールや薬物による自己破壊的な彼自身の態度や、レコード会社との対立によって特徴づけられたため、社会的な成功を得ることはなかった。過度の飲酒などに起因する早すぎる死もあり、死後の1998年にシコ・セーザル(Chico César)やジョアン・ボスコ(João Bosco)、レニーニ(Lenine)らが参加したトリビュート的コンピレーション・アルバム『Balaio do Sampaio』を中心とした一時的な再注目の兆しはあったが、長らく歴史に埋もれかけた存在となっていた。
そんなセルジオ・サンパイオに再びスポットライトが当たるのは、2020年前後だった。“ブラジルのトランプ”ことジャイール・ボウソナロ(Jair Bolsonaro)が2019年に極右政権を樹立すると、多くのアーティストがこれに強い抵抗を示す中で、セルジオの歌に込められた反骨精神は彼らのブラジル文化への深い愛情と呼応した。2021年に相次いで発表されたトリビュート作品──シダ・モレイラ(Cida Moreira)らによる『Sérgio Sampaio Poeta do Riso e da Dor』、エヂ・スター(Edy Star)の『Meu amigo Sérgio Sampaio』などはその好例で、セルジオ・サンパイオの声を借りた明白なプロテスタントだった。そして、セルジオ・サンパイオの歌と声は2022年の選挙によりボウソナロ政権が倒されるまで他のアーティストたちによるプロジェクトによっても広められ、その影響力は広がっていった。
そしてその流れは、本稿で紹介するフェリピ・ヂ・オリヴェイラの新作により、さらに強化された。
SSWフェリピ・ヂ・オリヴェイラによるセルジオ・トリビュート
フェリピ・ヂ・オリヴェイラ(Felipe De Oliveira)の新譜『Velho Bandido』も、セルジオ・サンパイオへのトリビュートとして彼の楽曲を新たに解釈したものだ。中性的なフェリピの声と、サイケロックの側面を強調し、さらにトロンボーンをフィーチュアした独特なサウンドによってセルジオの音楽の文化的な誠実さを讃えるアルバムとなっている。
彼は2021年にこのトリビュート・アルバムの制作を企画したが、同時期に前述のシダ・モレイラやエジ・スターといった他のアーティストが相次いで同様のテーマの作品を発表したため、独自のアプローチを模索したのだという。
今作は「不適応」をテーマに、セルジオの音楽業界や社会の規範に抗った生き方を讃える作品として完成した。ボウソナロが失脚した今となってはリリースのタイミングとしては“ちょうど良い”ものではなかったかもしれないが、それは単に権力への抵抗の象徴ではない、セルジオ・サンパイオの音楽家としての評価をあらためて補強し、ブラジル文化にとっての苦悩の時代を記憶に留めるためにも強力に機能するものとなるだろう。
セルジオ・サンパイオはかつて、軍事独裁政権による厳しい検閲の時代──人々が口を開き、何かを言うことを恐れていた時代──に、資本主義の原理によって回る音楽産業を皮肉を交え“ネズミを殺して食べる”行為((2)「Velho Bandido」)に例え、自身の孤立と闘いを表現した。フェリピはこの精神を2025年現在の社会状況に重ね、ジェンダーの固定観念や文化的保守化に対する抵抗として再解釈。原曲のアレンジを活かし、自身のカラーを加えた秀逸なカヴァーを生み出した。
そして俺がその年老いた盗賊だったら
「Velho Bandido」より
ネズミを狩って腹を満たすさ…
ロックを踊って生きていく…
サンバを作って売りさばく…
…笑いながら
アルバムを聴き進めると、フェリピ・ヂ・オリヴェイラの驚くべき表現力と、そしておそらくはまだ日本でもあまり知られていないであろう原作者セルジオ・サンパイオの才能に惹き込まれ、圧倒される。この作品はフェリピ・ヂ・オリヴェイラの3作目にして最高傑作であると同時に、多くの人にとって、1970年代初頭〜1980年代初頭のたった10年ほどしか作品を残さなかった失意の芸術家セルジオ・サンパイオの物語への扉を開く、忘れ難い音楽体験をもたらすものとなるだろう。
何もいらない
何も残さない
だって何も持ってない
足りないものと、足りるものだけ
あとは一人でいるだけ
俺は一人でいたい何の意味もない
(11)「Não Adianta」より
意味なんてない、意味なんてない
必要じゃない、必要なんてない
なら、泣いて何になる?
なら、泣いて何になる?
火の中にいるなら、焼かれるだけ
なら、泣いて何になる?
Felipe De Oliveira – vocal
André Milagres – electric guitar, 7-string guitar
Gabruga – keyboards
Marco Aur – bass
Yuri Vellasco – drums, percussion
Norton Ferreira – trombone
セルジオ・サンパイオの過酷な人生と、全作品解説
セルジオ・モラエス・サンパイオ(Sérgio Moraes Sampaio)は1947年にエスピリト・サント島で生まれた。父親は木靴屋のオーナー兼音楽家、母親は小学校の教師という貧しい家庭で5人兄弟の長子として育ち、9歳で家業の手伝いを始めたが、木靴市場の急激な衰退という時代背景もあり生活は厳しかった。
権威主義や強制、規律を一切拒否するセルジオの性格は、この時期の非常に厳格で権威主義的な振る舞いをする父親への嫌悪感が原因と言われている(ただし、セルジオは音楽家としての父は尊敬しており、父親の曲を2曲録音している)。
家を出たセルジオは16歳の頃にラジオのアナウンサーの仕事を得、同時期に友人の助けも借りてギターのコードを覚えていき、じきに週末にボヘミアンたちの伴奏をして稼ぐようになった。1964年にはリオデジャネイロに赴き成功へ運試しもしたが大成はせず、失意の中で地元に戻り、そして雇用主のラジオ局との意見の不一致による解雇にも遭った。
その後彼は再びリオで質素な下宿屋に住み、小さなラジオ局での雑用と、夜は市内のバーで演奏し歌うという生活を送ったが、仕事のスケジュールを守れないといった理由で頻繁に解雇された。
深刻な経済的困難に陥っていたセルジオだが、1971年にプロのミュージシャンとしてレコード会社との最初の契約を獲得。デビューシングル「Ana Juan / Coco verde」は比較的高く評価された。トロピカリアのムーヴメントに呼応し、当時のさまざまな社会規範に反抗する音楽性で知られるようになっていった。
1972年、自作の「Eu quero é botar meu bloco na rua」はコンクールで当初の最終選考10曲には残らなかったが、審査委員長を務めたナラ・レオン(Nara Leão)の強い推薦によって枠が拡大された12曲の中に残った。この曲はロベルト・メネスカル(Roberto Menescal)によってアレンジが施され、観客を沸かすものとなり、優勝することはなかったものの50万枚を売り上げるなど大成功を収めた。
セルジオはこの成功により一時的に良い暮らしを手に入れたが、その後リリースされた待望のデビューアルバム『Eu Quero É Botar meu Bloco na Rua』(1973年)はわずか5000枚の売上に留まるなど商業的に成功しなかった。セルジオ自身も突然の成功と世間からの認知に耐えられず、レコード会社の宣伝に協力せず、この商業的失敗に貢献した。この出来事からアルコールや薬物を濫用するだけでなく、ますます疑り深くなり、内向的になっていった。気性が荒く無責任で自己破壊的な芸術家というイメージは、このときの彼自身の行動と、レコード会社のプロデューサーや幹部たちによって伝えられた悪い評判によって決定的となってしまった。この頃、当時の独裁政権によってセルジオの詩には隠されたメッセージがあるとして絶え間ない検閲を受け、彼の家には兵士が侵入することさえあったようだ。
翌年には、セルジオに投資するレコード会社と、それに応えようとしないセルジオ自身との間の亀裂はもはや修復不可能なものとなっていた。音楽は作り続けたが、アーティスト自身が宣伝に興味を示さなかったこと、さらに聴衆に不快感さえ与えるパフォーマンスや、交通事故や過度の飲酒による自殺未遂はレコード会社がセルジオとの契約を解除をする理由としては充分すぎるものだった。
1980年代も音楽を作り続けることは辞めなかったが、彼を支援する者はわずかだった。彼が作る歌や、コンサートなどの活動は芸術家として度々絶賛されてはいたが、アルコール、タバコ、不健康な食生活などが原因で1994年4月17日に妹のアパートで47歳の誕生日を過ごした数日後に膵炎を発症し倒れ、5月15日に亡くなった。
セルジオは、自分を宣伝することよりも、物事を成し遂げることに関心のある人物だった。音楽を宣伝することを嫌っていたため、忘れられたまま亡くなったが、彼が成し遂げたことの普遍的な価値は、のちに再び訪れた政治的な国民虐待の時代に彼の音楽を知った人々によって”sampaiófilos”(セルジオ・サンパイオの熱心なファン)を生み出し続けていることが証明している。
セルジオ・サンパイオが残した作品
『Eu Quero É Botar Meu Bloco Na Rua』(1973)
1971年にレコード会社と契約したセルジオは、2枚のシングルをリリースしていたが、それまでのキャリアに満足していなかった。セルジオはレコード会社の判断や軍事独裁政権による検閲について不満を述べ、抗議を街頭に持ち出して騒ぎを起こしたいと述べた。エラズモ・カルロス(Erasmo Carlos)は、まさにその感情が当時のブラジルのアーティストたちの大部分の感情だと言い、彼にそのテーマで曲を作るように勧めた。こうして感情を揺さぶるコーラスと、鋭い隠喩が込められた歌詞に特徴づけられるセルジオの最大のヒット曲が1972年に世の中に出た。
この成功を受け、セルジオ・サンパイオのデビューアルバム『Eu Quero É Botar Meu Bloco Na Rua』がフィリップス・レコードよりリリースされた。が、レコード会社の期待に反し、優れたミュージシャンが起用され、多くの素晴らしい楽曲が収録されていたにも関わらず、この作品はほとんど売れなかった。
アルバムには前述のヒット曲をはじめ、トロピカリアの影響を受けた非凡な楽曲群が収録されている。ほとんどはセルジオ・サンパイオの作詞作曲だが、唯一(3)「Cala A Boca Zebedeu」は作曲家/指揮者であった彼の父親が1963年に書いた曲のカヴァーだった。
『Tem que Acontecer』(1976)
最初のヒットで突然手にした名声に対し、嫌悪と恐怖の入り混じった激しい感情を示し、人生の分岐点での選択を誤ったセルジオだったが、1974年の最初の結婚とエスピリト・サント州モミゾ・ド・スルへの移住が彼に精神的な平穏をもたらしたようだ。彼はキャリアを立て直す道を選び、1975年にリオに戻ると、新しいレコード会社と契約。1976年にリリースされた2枚目のアルバム『Tem que Acontece』はサンバやショーロを基軸とし、批評家からは好評を得たが、セルジオ自身がレーベルのプロモーションのスケジュールをこなすことに興味を示さず、ラジオでも曲がほとんど流れず、さらにはリオとサンパウロの大きなコンサート会場もセルジオとの協力を拒否したため、商業的には新たな失敗となった。
『Sinceramente』(1982)
1970年代後半、レコード会社から契約を解除され、また離婚も経験したセルジオの生活は再び荒れていった。1978年には慢性膵炎を発症し集中治療室に入ることもあった。
1980年代に入ると、新しい妻とその家族、そして音楽業界の友人たちからの資金援助により、インディーズ・アルバム『Sinceramente』をリリースしたものの、レコード会社等の支援もなく、生産された4000枚のレコードはほとんどが妻アンジェラの家に置き去りにされたという。
その後セルジオ・サンパイオはメディアから遠ざかり、1983年にはアンジェラとの間に息子を授かったものの、健康問題は依然として深刻だった。
少数の観客の前でいくつかの公演を行うなどして細々と生活をしていた彼は、その後長い時間をかけて徐々に習慣を改善し、1990年代には完全にアルコールを絶つことに成功した。
彼はこの期間中も歌を作り続け、50曲以上の未発表曲を残していたが、それを知るものは元妻アンジェラや親しい友人たちだけだった。
『Cruel』(2006)
セルジオは未発表曲をリリースするための新しいアルバムのレーベルを探すことにした。
1993年に未発表の10曲を選び、デモを録音した。1994年の初め、彼はサンパウロのレーベルであるバラトス・アフィンス(Baratos Afins)からの招待を受けアルバムの制作を開始したが、このプロジェクトはセルジオの死去により完成することなく中断した。
皮肉なことに、1990年代から、彼の評価はかつてないほど高くなっていった。
セルジオの最初のヒット曲である「Eu Quero É Botar Meu Bloco Na Rua」は1993年にソフトロックバンドのホウパ・ノーヴァ(Roupa Nova)によって、1995年には歌手のエルバ・ハマーリョ(Elba Ramalho)によって再録音された。
こうした流れの中で、ミュージシャンのゼカ・バレイロ(Zeca Baleiro)がセルジオの元妻から未発表音源を受け取り、完成に向けたプロジェクトに着手。14曲を収録した『Cruel』は2006年にリリースされ、セルジオの再評価への機運をさらに高めた。