Elliott Jack『Night Light』
ストレスの多い世の中で、心を穏やかに落ち着かせ、とめどなく押し寄せる不安に静かに寄り添ってくれるのはいつだって音楽だ。そして、これから紹介するソロピアノのアルバムはそんなシチュエーションにもぴったりかもしれない。
イングランド・ソリハル出身のピアニスト/作曲家エリオット・ジャック(Elliott Jack)が、パートナーの妊娠が発覚した2023年1月から作曲を開始し、初めての息子が誕生したあとの2024年6月まで制作を続けた『Night Light』。父性の芽生えをテーマとし、息子への贈り物としても機能する楽曲が収められており、録音はアップライトピアノの演奏をペダルの動きまで克明に生々しく捉えている。ブラームスの子守唄をアレンジした(5)「Lullaby, Op. 49 No. 4」を除き、全曲がエリオット・ジャックのオリジナルで、ジャズからポスト・クラシカルへ転向したという彼らしい個性が滲む。
エリオット・ジャックは自身のブログでこう書いている:
作曲プロセスは驚くほど有機的でした。テーマや厳格な構成を念頭に置いて始めたわけではなく、音楽は私が経験していた父親としての段階を自然に反映していました。作曲の初期段階を振り返ると、生きていることのエッセンスを一音一音に凝縮しようとしていたように思います。
www.elliottjacksansom.com
(中略)まるで隣でピアノを弾いているかのような、まるで家にいるような感覚になるように作られています。完璧であることではなく、本物であることを目指していたのです。
(1)「Opening Serenade」は穏やかな導入部として機能し、3分20秒の優しいメロディーがアルバムのトーンを設定する。続く三拍子の(2)「Peaceful Dreamer」は静かな夢の世界を描き、眠りを誘うような柔らかなタッチが印象的だ。美しいメロディーが印象的な(3)「Send An Arrow」は長調で演奏され、希望の矢を放つような明るさを持つが、それだけではない深い起伏も表現される。(4)「Sleep Little Child」は、子守唄の王道のような楽曲で、繰り返しのモチーフが心地よい。
(5)「Lullaby, Op. 49 No. 4」は、ブラームスの名曲をエリオット・ジャック風に再解釈したもの。原曲の優雅さを保ちつつ、リハーモナイズも加え現代的な響きで短くまとめあげている。随所にジャズの知見が垣間見えるアレンジで親しみやすい。
シングルとして先行リリースされた静かなワルツ(6)「Head Above The Clouds」は、妊娠を知った瞬間の高揚感を表現した曲だ。彼はこれを「雲の上を浮遊するような純粋な喜び」と形容し、アルバムのハイライトのひとつとなっている。
中盤の(7)「Finding My Feet」は、父としての足取りを探るような探求的なリズムが特徴。(8)「Night Light」は、タイトル曲として夜の灯りをイメージし、優しい光の揺らめきをピアノで描く。
(9)「First Smile」は、赤ん坊の初めての笑顔を捉えた喜びに満ちた曲。(10)「Sleepy Song (Humming Version)」と(11)「Sleepy Song」は、同じメロディーのバリエーションで、ハミング版がより親しみやすい。アルバムは(12)「The Three Of Us」で締め括られ、家族三人を象徴する温かなハーモニーが響く。
Elliott Jack Sansom 略歴
エリオット・ジャック・サンサムは1994年にイングランド、ウェスト・ミッドランズのソリハルで生まれたピアニスト/作曲家。幼少期からアスペルガー症候群を抱え、社会性や感情のコントロールに苦しんだが、4歳から耳コピでピアノを始めると、音楽が心の平穏を与える存在となった。
家族の音楽環境が大きく影響し、祖母のコレクションの1940〜1950年代のポップソングや、コール・ポーターの曲を聴きながら育った。学校では授業を抜け出して音楽室に通ったり、演劇学校でミュージカル『スクルージ』や『ジョセフ』の主役を務め、自信を築いたという。
14歳頃からジャズに傾倒し、レイ・チャールズやアート・テイタム、ナット・キング・コールなどの影響を受けた。バーミンガム音楽院をコース史上最高の成績で卒業し、2016年にBBC Young Musician of the Yearのジャズ部門ファイナリストとなった。ジャズシーンでは、スタン・サルツマン、ノーマ・ウィンストン、クラーク・トレイシー、ジミー・コブらと共演し、トロンハイム・ジャズ・フェスティバルやロニー・スコッツ、アルバート・ホールなどで演奏した。自らのトリオを率い、国際ツアーも経験した。
しかしながらジャズの世界の競争的な環境と過度の音楽的分析などが精神的な負担となり、新型コロナ禍で内省の機会を得て、2021年に現代クラシックへ転向することを決意。シンプルで瞑想的なスタイルを確立すると、シングル「Kaleidoscope」がSpotifyの「Peaceful Piano」プレイリストに8ヶ月間掲載されるなどし総ストリーミング再生回数は7000万回を超え、Apple MusicやAmazon Musicからも支持された。デビューアルバム『Finding Beauty』は、ロックダウン中の記憶や自然をテーマにした17曲のソロピアノ作品で、2022年にリリースされた。
影響源はデューク・エリントン、デブシー、フレデリック・モンポウ、ミシェル・ルグラン、カーペンターズなど多岐にわたり、ジャズのハーモニーとクラシックのメロディーを融合させる。2025年にはDeccaからアルバム『Night Light』を発表し、初めての父親体験を子守唄風の曲で表現した。兄と共同運営するSansom Studiosで録音を行い、シートミュージックも提供している。現在はオックスフォード郊外のコテージにパートナーと暮らし、ライブやコラボレーションを計画中。音楽を「薬」や「瞑想」として位置づけ、感情豊かな作品でリスナーを魅了している。