十二音技法の制限と、それを超越することの難しさ
世界標準の音楽のフォーマットとなっている西洋音楽で使われている音は「ド」〜「シ」のたった12音しかない。
ほとんどの作曲家や演奏家は、この12の音の重ね方を工夫したり、次にどの音を鳴らすかという連続性を考えたり、あるいはどんな音色を鳴らすかを散々悩み、なんとか新しくて刺激的な音楽を生み出そうとしている。
これらの十二音技法によって作られる音楽は有限なようでいて無限なんですよ、という作家もいるし、それは勿論間違ってはいないと思えるのだが、大抵の場合そうした人の音楽もまた、どこかで聴いたことのある素材の使い回しだったりするものだ。
長く音楽に触れていると、何を聴いても陳腐に思えてしまうときが来る。ヒット曲を分析すればある種の法則は自然と見えてくるし、実際多くのリスナーはそれ以上のことを求めていないのが現実だ。音楽そのものに魅せられた者はより深く表現を追求するが、本当に個性のある音を作り出すことができ、さらにそれを多くの聴衆に届けることができるアーティストはごく僅かだ。これは良い悪いではなく、多くの制約の中で自由や新しさを求めることの必然であり限界だと思っている。
だから時々、十二音技法に縛られていない音楽や、意図的に十二音技法を避けた音楽に刺激を求めることも自然な流れだ。
そうした音楽を聴けば、面白いとは思う。…けれども、そうした音楽の多くは凡人の私の耳にはしっくり来ない。
たしかに面白いと思いながら、それらの音楽の多くは次の日には忘れてしまう。心に残らないのだ。
究極の個性を持つ音楽家、Guinga
ここにカルロス・アルチエール・ヂ・ソウザ・レモス・エスコバール(Carlos Althier de Souza Lemos Escobar)という音楽家がいる。
この長すぎる名前を覚えているのは彼の家族くらいのものだろうが、彼の幼少時のあだ名に因むギンガ(Guinga)というステージネームは世界中の創造的なミュージシャンや、芸術を愛するファンには広く知れ渡っている。
1991年に40歳を過ぎてアルバム・デビューを果たしたこの遅咲きのアーティストが、なぜここまで世界中の音楽家やファンから尊敬される人物になったのか。
ギンガが創る音楽はすべて十二音技法に基づいているし、使用している楽器もごく普通の何の変哲もないナイロン弦のクラシックギター(ブラジルではヴィオラォンと呼ばれる)だ。
だがギンガはその6弦のガットギターで、次々とこれまでに誰も聴いたことがないような和音とメロディーを世に送り出してきた。実際に彼の曲を真似て弾いてみると、その構造には驚かされることばかりだ。そして彼の音楽はただ個性的なだけでなく、とにかく音楽的で美しい。何よりもそれがいちばん素晴らしいことだ。十二音技法の制約のなかで、他の誰とも違い、なおかつ美しく音楽的でいられるぎりぎりのところにあるのがギンガの音楽なのだ。
71歳の誕生日に新譜『Zaboio』をリリース
ギンガは自身の71歳の誕生日にあたる2021年6月10日に新譜『Zaboio』をリリースした。彼がすべて一人で作詞作曲した初のアルバムだ。ギンガの多くの曲に詞を書いてきた偉大な詩人アルヂール・ブランキ(Aldir Blanc)は2020年5月に新型コロナ感染症のためこの世を去ってしまった。ギンガの作詞のパートナーはアルヂールだけではなかったが、今作ではギンガ自らが詞を書き、歌っている。
このアルバムはリオデジャネイロ郊外の労働者階級の家庭に生まれ育ったギンガの子供の頃の経験にインスパイアされている。父親の労働の姿、叔父が飼っていた馬の世話、家族や親戚が聴いたり演奏していた音楽、大好きだったサッカー、鳥たちや自然のこと。
経済的には決して豊かではない少年時代を過ごし、歯科医として手に職をつけ働き、音楽家としても成功した男の極めて内面的なルーツや生き様が感じ取れる。土埃のような乾いたギターと、穏やかだが苦労がにじむ歌声。複雑に組み立てられた曲はまさしく職人芸そのものだ。
(4)「Tangará」はブラジル音楽を世界に広めた第一人者であるセルジオ・メンデス(Sergio Mendes)に捧げた曲で、セルジオ・メンデスのアルバム『In the Key of Joy』(2020年)にも歌詞がないバージョンが収録されている。
(6)「Paulistana Sabiá」と(10)「Jogo de Damas」にはギンガの最大の理解者のひとり、モニカ・サウマーゾ(Mônica Salmaso)がヴォーカリストとして参加。心を通わせながら交互に歌う二人の声は魂に直接響いてくる感覚がある。ギンガの音楽は、間違いなく地球上でもっとも美しい音楽のひとつだと思う。
ブラジル音楽の巨匠シコ・ブアルキは数年前、「ブラジル音楽に興味を持った人は必ずギンガに辿り着くだろう」と宣言したという。
ギンガの登場以降、ブラジル音楽界はより高いレベルを目指すようになったという言説も見たことがある。
それだけギンガという存在は偉大なのだ。
それは本作のプロデューサーが、ブラジルのポップ音楽シーンを盛り上げてきたカシン(Kassin)であるという事実が証明している。
Guinga – vocal, guitar
Mônica Salmaso – vocal (6, 10)