アダム・バウディヒ新作『Portraits』
アルバムの幕開け(1)「Genesis」で、彼の代名詞となったルネサンス・ヴァイオリンでの輝かしいリコシェ1のリフレインを聴いた瞬間から、魔法にかかったように音楽の虜になってしまった。これはポーランドのヴァイオリン奏者アダム・バウディヒ(Adam Bałdych)の2025年新譜『Portraits』。“過去と現在の人々、彼自身、そして彼の魂に物語が響き、彼の現実を形作る人々についての物語”をテーマに据えた今作で、アダムはポーランドの歴史にやさしく寄り添う。
アダムは今作のために新たにクインテットを結成した。集まった音楽家はピアニストのセバスティアン・ザワツキ(Sebastian Zawadzki)、テナーサックス奏者マレク・コナルスキ(Marek Konarski)、ベーシストのアンジェイ・シフィェンス(Andrzej Święs)、ドラマーのダヴィド・フォルトゥナ(Dawid Fortuna)といずれもポーランドを代表する名手たち。それぞれの曲も、このクインテットでなければ成し得なかったと思えるほどに完璧に嵌っている。
マレク・コナルスキのテナーサックスの表現力の豊かさに驚かされるのは(2)「Canon」。イントロではピアノが形作るリズムの上でルネサンス・ヴァイオリンとともに長い音価で奏でられる音はまるでチェロなどの弦楽器と見間違うほどに繊細な音色だが、2:12からのソロではこれぞテナーサックス!な見事なブロウを披露する。
世界に平和を求める音楽家の呼びかけ
アダム・バウディヒは、今作について「第二次世界大戦を生き延びた人々の記録がインスピレーションの源となった」と語っている。彼が住むヨーロッパの周辺でも戦争や紛争が起こり、緊張が高まる中でこれは彼にとっては今取り上げるべき重要なテーマだった。アダムは、ポーランドの悲しい史実について紐解いてゆき、アウシュヴィッツ強制収容所2に送られながらも収容所オーケストラの指揮者兼編曲家として生き延びることができた作曲家シモン・ラクス(Szymon Laks, 1901 – 1083)による小説『Auschwitz Games』やアウシュヴィッツ=ビルケナウからの詩や手紙を参照し、人間の本質、存在の意味、人間の感受性や創造性が言語に絶する残虐性とどのように向き合えるのかという深遠な問いを投げかけた。
わずかな為政者によって多くの人々が苦しむ状況に憂いと怒りを示す(4)「Protest Song」、ナチスによるホロコーストの最中、8人のユダヤ人を屋根裏に匿ったことでそのユダヤ人と共に悲劇の最中に出産された赤子を含む一家全員が虐殺されたポーランド系カトリック教徒のウルマ一家3の物語に想いを馳せる(8)「Lullaby for Ulma Family」、中東に伝わる護身符ハムサ4をテーマとした(12)「Hamsa」などによって、アダム・バウディヒの切実な想いが明確に表現されている。収録された15曲は全て器楽曲だが、その表現の深みは歌詞という言葉を持つ様々な歌を軽く凌駕しているように感じる。
とにかく、このアルバムは完璧だ。
テーマの重さ、音楽自体の構成の美しさ、そしてジャズの特長である即興パートですら計算され尽くした感覚。バンドはリハーサルにかなりの時間を費やしたといい、アダムによるとそれは「クラシック音楽のようだった」という。彼らはそれぞれの楽器の音域に耳を傾け、楽器が充分に表現できる理想的な空間を探した。そのプロセスは繊細で、ほとんど外科手術のようだった。
今作は、10代の頃から天才ヴァイオリニストと呼ばれたアダム・バウディヒに託された未来を体現した彼の最高傑作なのではないかと思う。
Adam Bałdych 略歴
ヴァイオリン奏者/作曲家のアダム・バウディヒは1986年ポーランド西部の都市ゴジュフ・ヴィエルコポルスキに生まれ、9歳の頃からヴァイオリンを学び始めた。13歳でジャズに傾倒、16歳の頃よりプロとしての活動を始め“ジャズヴァイオリンの革新者”として世界にその名を轟かせた。
2012年にドイツの名門ジャズレーベル、ACT MUSICからデビュー作『Imaginary Room』を発表。これまでにヤロン・ヘルマン(Yaron Herman)、ヘルゲ・リエン(Helge Lien)、イーロ・ランタラ(Iiro Rantala)など多数の名手たちと共演。ヴァイオリンという楽器が持つポテンシャルを限界まで高める圧倒的な表現力を備えた現代最高峰の演奏家として評価されている。
近年は通常のヴァイオリンよりも一回り大きく、7度ほど低く調弦されたルネサンス・ヴァイオリンを演奏に多用するようになっており、『Clouds』(2020年)や『Poetry』(2021年)、『Legend』(2022年)などでもその豊かな音色を楽しむことができる。
Adam Bałdych – violin, renaissance violin
Sebastian Zawadzki – piano, upright piano
Marek Konarski – tenor saxophone
Andrzej Święs – double bass
Dawid Fortuna – drums
- リコシェ(ricochet)…フランス語で「石などが水面や平面で斜めに跳ね返る」様子を意味する、ヴァイオリンの奏法。弓を弦の上から軽く落とし、水切りのように一弓で連続して跳ねさせて弾く。 ↩︎
- アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所…アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889 – 1945)率いるナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出したポーランド南部の強制収容所。当時ヨーロッパにいたユダヤ人の2/3にあたる約600万人が犠牲となった所謂「ホロコースト」の象徴的な施設。 ↩︎
- ウルマ一家(Ulma family, あるいは Józef and Wiktoria Ulma with Seven Children)…第二次世界大戦中のナチスドイツ占領下、ポーランドのマルコヴァに住んでいたヴィクトリアとユゼフ夫妻、そして一人の胎児を含む夫婦の7人の子どもの家族。ポーランド系ユダヤ人の8人を自宅に匿って救出しようとしたその行為により、1944年3月24日に家族全員が即決処刑された。 ↩︎
- ハムサ(hamsa)…中東やマグレブ地方に伝わる、邪視から身を守るための手の形をしたお守り。 ↩︎