調性音楽に刺激を与えるレシェック・モジジェル新作『Beamo』
“実験”と呼ぶには、あまりに芸術的な作品だ。音楽の革命という表現でさえ、大袈裟ではないかもしれない。この作品は間違いなくリスナーに新たな刺激的音楽体験をもたらし、何世紀にもわたって平均律に囚われ続けてきた音楽界に小さくはない波を呼び起こすだろう。
ポーランドのピアニスト、レシェック・モジジェル(Leszek Możdżer)は新作『Beamo』で、彼の前作『Passacaglia』(2024年)で試みた調性に対する実験をさらに大胆な形で更新している。彼はそれぞれ調律の異なる3台のピアノを用い、調性を放棄するのではなく、調性を拡張する形で音楽そのものを美しく再構築する。
アルバムを再生すると、これが想像し得ない衝撃的な音と音楽が記録された驚くべき作品であるという事実をまず突きつけられる。
ピアニストを囲むように配置された3台のグランドピアノはそれぞれA=440Hz、A=432Hz、そしてオクターヴを10の等間隔に分割する特殊な調律が施されており、自在にそれらの鍵盤を行き来することで驚くほど色彩豊かな音の世界を表現している。
調律(基準周波数)の微妙に異なるピアノでユニゾンすることで意図的にデチューンの効果を得たり、1音を異なるピアノで交互に弾くことでその周波数の微妙な差異によって不思議な浮遊感を生み出したりと、ひとつの曲の中でいくつもの調性が同時並行で共存しているような、これまでに聴いたこともない音で聴覚を大いに刺激される。
“音感の良い”人なら、最初は気持ち悪いと感じるかもしれない。だが不思議と、聴いているうちに慣れてしまうのだ。そうなってしまったら、もうこのサウンドの虜になる。心地よい刺激、音楽が拡張される感覚──。
そして一度これに慣れてしまえば、途端に十二平均律の音楽では物足りなくなってしまう。音楽に安寧よりも刺激を求めるのであれば、これは麻薬あるいは劇薬のようなある意味危険なほどのものだ。
20年来の名トリオによる調性音楽の新章
今作でレシェック・モジジェルの壮大な実験に付き合うメンバーは、20年来の音楽的パートナーであるラーシュ・ダニエルソン(Lars Danielsson, b, cello)とゾハール・フレスコ(Zohar Fresco, ds, perc)。彼らは2005年作『The Time』で初めてトリオを組み、その当時ですら芸術性の高さから“音楽観に変化をもたらす”と絶賛されていたが、彼らの果てぬ探求心の驚くべきひとつの帰結が今作だと言えるだろう。
今作の象徴的な(1)「Ambio Bluette」はゾハール・フレスコによる深淵なリズムの上で、3台のピアノを駆使した微分音のフレーズが夢想的に響く。限りなく実験的だが、同時に既存の音楽の概念を超越した美しさを秘めた驚異的な音楽だ。
ラーシュ・ダニエルソン作曲の(2)「Cattusella」は古典的な技法を用いて作曲された極めて美しい曲だが、微妙に異なる調律のピアノにより新鮮な二重調性の感覚を生み出している。前半からごく僅かに周波数の異なる音を交互に弾くことで、ドップラー効果のような感覚を再現。楽曲の美しさに定評のあるラーシュ・ダニエルソンの音楽観を限りなく拡張する、目の前の風景が唐突に開けるような爽快な感覚のある傑作だと思う。
アルバムのタイトル曲である(3)「Beamo」は、とりわけミステリアスだ。レシェック・モジジェルによるとBeamoとは“ゲームであり、コードであり、リスナーに隠されたメッセージを解読させるものだ。愛を象徴するラテン語の「amo」や、光線を想起させる「beam」を参照しているかもしれない。謎であり、多次元のマニフェストであり、考え得る限り最も短い詩”なのだという。
(9)「Decaphonesca」では、ラーシュ・ダニエルソンはヴィオラ・ダ・ガンバ1を弾いている。フレットを移動できる楽器の特性を活かし、レシェック・モジジェルのデカフォニック・ピアノと同じように十平均律に楽器をチューニング。奇妙に響くアルペジオでピアノと競演する。
ラストの(13)「Enjoy the Silence」は英国のロックバンド、デペッシュ・モード(Depeche Mode)のヒット曲のカヴァー。過去にニルヴァーナ(Nirvana)なども演奏した彼ららしい選曲でクールダウンし、このスリリングな未知の冒険を締めくくる。
Leszek Możdżer 略歴
ピアニストのレシェック・モジジェルは1971年ポーランドの歴史ある港町グダニスク生まれ。幼少期から音楽に親しみ、5歳でピアノを始め、クラシック音楽の基礎を築いた。グダニスク音楽アカデミーでクラシックピアノを専攻し、1996年に卒業するが、在学中からジャズに強い関心を抱き、独自のスタイルを模索し始める。
1991年にポーランドを代表するサックス奏者ズビグニエフ・ナミスオフスキ(Zbigniew Namysłowski)のバンドに参加し、プロのジャズピアニストとしてのキャリアをスタートさせる。この時期に彼は伝統的なジャズとポーランドの民族音楽、クラシックの要素を融合させた独自の音楽性を確立し、1994年には初のソロアルバム『Impressions On Chopin』をリリース。ショパンの作品をジャズ風に解釈したこの作品は、彼の革新的なアプローチを示すものであり、批評家から高く評価された。
2004年からスウェーデン出身のラーシュ・ダニエルソンとイスラエル出身のゾハール・フレスコとのトリオ活動を開始し、『The Time』(2005年)や『Pasodoble』(2007年)、『Polska』(2013年)といった名盤をリリース。このトリオは20年以上にわたり彼の主要な表現の場となり、2025年の『Beamo』でさらなる進化を見せた。
映画音楽の作曲などでも知られ、クシシュトフ・コメダ賞(1992年)やポーランド外務大臣賞(2007年)などを多数受賞。名実ともにポーランドを代表するジャズ・ピアニストとなっている。
Leszek Możdżer – piano
Lars Danielsson – double bass, cello, viola da gamba
Zohar Fresco – drums, percussion
- ヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba)…16世紀から18世紀にヨーロッパで用いられた擦弦楽器。ネックに巻きつけたガットがフレットとなっており、その位置は変えることができる。 ↩︎