Yotam Ben-Or『Impermanence』 即興を重視した情緒豊かな傑作
現在のジャズ・ハーモニカの第一人者、イスラエル出身のヨタム・ベン=オール(Yotam Ben-Or)の新譜『Impermanence』がリリースされた。長年のコラボレーターであるベネズエラ出身のピアニストのガブリエル・チャカルヒ(Gabriel Chakarji)らを擁するカルテットを中心とし、南米や中東の伝統的な素朴で印象に残るメロディーから、キューバやベネズエラの音楽に触れたことで形成された複雑なリズムまで、音楽家としての彼の繊細で豊かな感情に触れることのできる一枚だ。
アルバムタイトルの「Impermanence」とは「非永続性」、仏教用語でいう「諸行無常」を表す単語で、今作の制作を通じて彼が目指した”ありのままを受け入れること”というテーマを反映している。サウンドのすべてを完璧にコントロールし、スタジオで様々な手直しを加えるのではなく、ジャズの音楽家としてのインタープレイとそこで生まれる感情の変化、ミュージシャン同士の瞬間的な意識の繋がりをより重視した作品と言えるだろう。
アルバムはアルゼンチンのカルロス・アギーレ(Carlos Aguirre)が作曲し、彼の伝説的なソロピアノ・アルバム『Caminos』(2006年)に収録され、もはや中南米音楽の新しいスタンダードとなった名曲のカヴァー(1)「Milonga Gris」で幕を開く。アレンジは原曲に忠実で、ヨタム・ベン=オールのハーモニカとガブリエル・チャカルヒのピアノの右手のユニゾンで美しく流れるような旋律を際立たせ、ベースのアロン・ニアー(Alon Near)とドラマーのアロン・ベンジャミニ(Alon Benjamini)はフロントの二人を低音とリズムで巧みに支える。
(1)「Milonga Gris」と、ガブリエル・チャカルヒ作曲の(4)「Merengue」を除き、他はすべてヨタム・ベン=オールの作曲。巧みな旋律と和声進行が抒情的なヨーロッパのジャズに通ずる(2)「Triangulation」、エンリコ・ピエラヌンツィあたりの地中海ジャズを彷彿させる(3)「By the Way」といった楽曲はとても情緒豊かで美しく、特に注目すべきだろう。
(5)「Ballad for Daniel」は北欧ジャズの第一人者であるラーシュ・ダニエルソン(Lars Danielsson)をゲストに迎え、彼のチェロとともに思慮深く音を紡いでいく。
(8)「Kafka on the Beach」は村上春樹の小説『海辺のカフカ』(2002年)にインスパイアされた楽曲。2005年に英語に翻訳され、ニューヨーク・タイムズ紙の「2005年ベスト10」に選出され、さらに2006年の世界幻想文学大賞を受賞した、夢や運命、自己探求といったテーマが描かれたこの謎めいた物語は、今作の核である“無常”や“内面の自己成長”と重なる部分がある。
ラストの(10)「Trying」は今作唯一のヴォーカル曲で、歌唱はヨタム・ベン=オールの妻であるエステル・クアンサ(Esther Quansah)が担当。彼女の優しくも脆さを孕んだ歌唱は、アルバムを心地よい抱擁で締めくくる。
Yotam Ben-Or 略歴
ヨタム・ベン=オールはイスラエルとベルギーの二重国籍を持つジャズ・ハーモニカ奏者/作曲家。エルサレム地域の小さな村・ナタフで生まれ育ち、9歳の時に叔父から贈られたハーモニカに魅了され音楽の道へと進むことを決意。高校卒業後にテルアビブに移り、テルアビブ音楽学校とニューヨークのニュースクールの共同プロジェクトに参加し、イスラエル全土で演奏を行った。
2013年にロストフ国際ジャズコンペティション(Rostov International Jazz competition)で優勝し、翌年にはイスラエルが生んだ最高のベーシスト、アヴィシャイ・コーエン(Avishai Cohen)が企画したイスラエルの若手ジャズミュージシャンのコンピ盤『All Original (Best Young Israeli Jazz – Presented by Avishai Cohen)』にバンド「Jupiter」のメンバーとして参加。
2014年にフルスカラーシップを得てニューヨークのThe New School for Jazz and Contemporary Musicへ移る。2016年に卒業後、ジャズ・アット・リンカーン・センター、カーネギーホール、ブルーノートなど名門会場で演奏し、ニューヨークのジャズシーンで注目を集める。師であるグレゴア・マレ(Grégoire Maret)やアヴィシャイ・コーエンらから支持を受け、トゥーツ・シールマンス(Toots Thielemans)の系譜を継ぐ稀有なハーモニカ奏者として評価される。2018年にデビューアルバム『Sitting on a Cloud』をリリース。2022年にはEP『Endless』と、シンガー・ソングライターとしての才覚を発揮したアルバム『Deliberations』を発表した。
Yotam Ben-Or – harmonica
Gabriel Chakarji – piano
Alon Near – bass
Alon Benjamini – drums
Guests :
Lars Danielsson – cello
Esther Quansah – vocals