孤高の才ティグラン・ハマシアン 個の深淵から沸き立つ”マニフェスト”
儀式的で不穏なシークエンスに導かれる(1)「Prelude For All Seekers」(すべての探求者のための前奏曲)から、荘厳なクワイアとピアノによる切実な祈祷(14)「National Repentance Anthem」(国民の懺悔の賛歌)まで──。現在の音楽シーンにおいて常にトップランナーであり、他の追随を許さないアルメニアの孤高の才ティグラン・ハマシアン(Tigran Hamasyan)は、2026年の新譜『Manifeste』で、深く入り組んだ自己省察を細部まで美しく構築された音楽を通して、そのまま現代社会の混迷した複雑性へと投影してみせる。
彼の代名詞であるジャズとプログレ、メタル、アルメニア民族音楽の融合はもはや異次元の領域に達している。彼自身の言葉によれば「古代に作曲されたかもしれない」というこれらの音楽には、憎しみと争いの無限ループに陥ってしまったように思える人間社会を反映しつつも、異なる文化や人間性が尊敬と愛をもって共存する理想の社会をもその内面に潜めている。ティグランはこの作品について、「私たちの心の奥底へと導く道を示し、私たち自身を変革する力があり、世界を変えるために私たちが何を成し遂げられるのかを発見する助けとなる」とも語っている。
今作は、これまで以上に「静」と「動」のコントラストが強調されている。
(7)「Dardahan」や(10)「Ultradance」はティグランらしい複雑怪奇な変拍子とプログレッシヴ・ロックのような攻撃的なグルーヴが炸裂。特に前者はアルメニア語で“悲しみを取り除くもの”という意味を持ち、激しいリズムがカタルシスをもたらす。
逆に(4)「One Body, One Blood」や(14)「National Repentance Anthem」はエレバン国立室内合唱団による幽玄なクワイアが重なり、まるで中世の聖歌のような、時空を超えた祈りの空間が広がる。
(6)「Years Passing (For Akram)」は、バングラデシュ系イギリス人ダンサー/振付師のアクラム・カーン(Akram Khan)からインスピレーションを得たもの。ティグランの第一子が生まれる数ヶ月前に書かれた曲で、年月の経過とともに絶えず移うものと、不変なもの──特定の場所に結びついた記憶、音楽、本の中の物語や詩など──の対比をダニエル・メルコニアン(Daniel Melkonyan)のトランペットとともに静かに描写する。
(8)「War Time Poem」は2020年のナゴルノ・カラバフ戦争1を描いた曲で、侵略行為への明確な拒絶の意思を示すものだ。アゼルバイジャンに属するナゴルノ・カラバフ地域はアルメニア系住民が多く住むが、この大規模な衝突によって“民族浄化”が試みられ、700人以上の命が失われたと言われている。ティグランはこの曲について、次のような紹介を添えている:
このビデオは、そんなに遠くない過去への葉書です。私たち全員のささやかな思い出です。 終わりのない戦争の中でも、自分たちの生活と夢に満ちた世界を創り上げている全ての子供たちへの葉書です。 この映像は、答えのない質問を抱えている私たちです。私たちが選んだ道は正直さと愛の一つであることを確信しています。
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アルバム収録曲は全曲がティグラン・ハマシアンの作曲。演奏陣にはベーシストのマーク・カラペティアン(Marc Karapetian)やドラマーのアーサー・ナーテク(Arthur Hnatek)、チェリストのアルチョーム・マヌキアン(Artyom Manukyan)といったお馴染みの面子のほか、アニマル・アズ・リーダーズ(Animal As Leaders)のドラマーマット・ガルスカ(Matt Garstka)やエヴァーフォース(Everforth)のギター奏者ニック・レランディ(Nick Llerandi)といったプログレッシヴ・メタル界隈からミュージシャンが参加。曲によってはよりヘヴィーに、ティグランの音楽観を拡張している。
アルメニア出身の奇才ピアニスト Tigran Hamasyan 略歴
ティグラン・ハマシアンは、ジャズ、アルメニア民謡、そしてプログレッシブ・ロックやメタルを類まれな感性で融合させるピアニスト/作曲家。1987年、アルメニアのギュムリに生まれた彼は、宝石商の父と服飾デザイナーの母のもと、音楽に溢れた環境で育った。3歳でピアノを弾き始め、幼少期はレッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)やブラック・サバス(Black Sabbath)といったハードロックに熱中しつつ、叔父の影響でジャズやソウル、ファンクにも親しんだ。
9歳でジャズを本格的に学び始めたティグランは、10代で地元アルメニアの民謡をジャズの即興演奏に取り入れる独自のスタイルを確立し始める。16歳で家族と共に米カリフォルニアへ移住した後も、その才能は瞬く間に開花した。2003年のモントルー・ジャズ・フェスティバル・ピアノ・コンペティションでの優勝を皮切りに、2006年には権威あるセロニアス・モンク国際ジャズ・ピアノ・コンペティションで19歳の若さで優勝を飾り、世界的な注目を集めた。
彼の音楽の根幹を成すのは、アルメニアの伝統的な旋律や複雑なリズム、そして東欧/中東的な音階への深い探求心だ。その響きは、ECMから発表したエレバン国立室内合唱団との共演作『Luys i Luso』(2014年)に見られるような聖歌の静謐さから、超絶技巧を駆使した変拍子の激しいグルーヴまで極めて幅広い。2024年にはアルメニアの民話をテーマにした壮大なプロジェクト『The Bird of a Thousand Voices』を発表するなど、その創作意欲はとどまるところを知らない。
現在は再びアルメニアのエレバンを拠点とし、ハービー・ハンコックら巨匠からも絶賛されるその独創的な作風で民族的なルーツと現代的な感性を繋ぎ続けている。ジャンルの境界を自在に超え、深淵な精神性と肉体的なダイナミズムを共存させる彼の存在は、21世紀の即興音楽におけるひとつの到達点を示している。
Tigran Hamasyan – piano
Marc Karapetian – bass
Arthur Hnatek – drums
Arman Mnatsakanyan – drums
Matt Garstka – drums
Nate Wood – drums
Artyom Manukyan – cello
Daniel Melkonyan – trumpet
Nick Llerandi – guitar
The Yerevan State Chamber Choir
Kristina Voskanyan – conductor
- ナゴルノ・カラバフ戦争(Nagorno-Karabakh conflict)…南コーカサスのナゴルノ・カラバフ地域を巡るアゼルバイジャンとアルメニアの領土紛争。国際的にはアゼルバイジャン領だが、アルメニア系住民が多く、1990年代の独立戦争、2020年の大規模衝突、2023年のアゼルバイジャン支配回復を経て、現在も緊張が続いている。 ↩︎