現代ムガームジャズの雄、エルチン・シリノフ 2018年作『Waiting』
2019年から2022年10月まで、アヴィシャイ・コーエンのトリオに参加したことで国際的に知られるようになったアゼルバイジャン出身のピアニスト、エルチン・シリノフ(Elchin Shirinov)。彼が2018年に自主制作しライヴ会場限定などで限定的に売っていた個人名義での初リーダー作『Waiting』が、デジタル・プラットフォームで配信開始された。
今作はピアノトリオ編成で、ベースにイタリア出身のアンドレア・ディ・ビアーゼ(Andrea Di Biase)、ドラムスにイギリス出身のデイヴ・ハンブレット(Dave Hamblett)というともにロンドンで活動する音楽家を迎えており、エルチン・シリノフのオリジナルが3曲、伝統曲が2曲、カヴァーが2曲収録されている。
(1)「Sari Gelin」はアゼルバイジャン、アルメニア、イラン、トルコなど東欧・中東で広く知られている伝統曲で、それぞれの地域によって歌詞は若干異なるがほぼ同一のメロディーで歌われている不思議な曲。アゼルバイジャンではイスラム教徒の男の子と、アルメニアから来たキリスト教徒の金髪の女の子との間の叶わぬ恋についての物語だ(英語版のWikipediaではこの曲にまつわる興味深い知見を得ることができる)。
ここでのトリオの演奏、とりわけエルチン・シリノフのピアノはムガームジャズの魅力を凝縮したようなものになっており、地域性の強いスケールと奏法にいきなり耳と心を掴まされてしまう。
(3)「Durna」も伝統曲で、流麗な民族的フレーズが最高に魅力的な楽曲だ。ここでもエルチン・シリノフのピアノがアンサンブルを主導するが、ベースとドラムスも単なる伴奏ではなく複雑なインタープレイで呼応し、トリオの音楽的なセンスの良さが感じ取れる。
(5)「Waltz from Seven Beauties ballet」はアゼルバイジャンの作曲家カラ・カラーエフ(Kara Karayev, 1918 – 1982)の曲。
ラストの(7)「O Olmasin Bu Olsun」はアゼルバイジャン国家の作曲者であり、アゼルバイジャンにおける“クラシックとオペラの父”と称されるウゼイル・ハジベヨフ(Uzeyir Hajibeyov, 1885 -1948)のカヴァー。特徴的な11拍子のリズムとオリエンタルな旋律が気持ちいい。
エルチン・シリノフのオリジナルはリズムを全面に押し出した現代的なサウンドの(2)「Waiting」、静謐で内省的な(4)「Missing」、そしてムガームの影響が表出した(6)「Muse」の3曲で、どれも彼の魅力的な個性が滲み出た素晴らしい演奏となっている。
現代ジャズ・ムガームのトップランナー、Elchin Shirinov
エルチン・シリノフ(アゼルバイジャン語表記:Elçin Şirinov)は1982年、アゼルバイジャンの首都バクー生まれ。彼の2人の兄弟はバクーの州立音楽院で伝統楽器を学んだが、エルチン自身はピアノを独学で習得し、のちにレッスンを受けることはあったが音楽学校で学ぶことはなかった。
バクーのジャズ文化の発信地であるバクー・ジャズ・センター(Baku Jazz Center, 2002年設立)への出演などを通じて徐々に人気となり、アゼルバイジャンの現代ジャズの最重要人物であるサックス奏者のレイン・スルタノフ(Rain Sultanov)のツアーに参加するなど国内で名声を得ると、2019年に国際的なイスラエル人ベーシスト、アヴィシャイ・コーエン(Avishai Cohen)のトリオのピアニストに大抜擢。世界中をツアーし一気にその名を知られるようになった。
エルチン・シリノフのピアノはヴァギフ・ムスタファザデ(Vagif Mustafazadeh)やラフィク・ババーエフ(Rafiq Babayev)らがアゼルバイジャンで独自に発展させたムガームジャズ(Jazz mugham)の演奏スタイルを継承するもので、民族音楽に根ざした独特のスケールやトリルの多用が彼の強い個性のひとつとなっている。
実質的なデビュー作は2017年にリリースされたハンガリーのパーカッショニスト、アンドラーシュ・デーシュ(András Dés)との双頭名義のアルバム『Maiden Tower』。
アヴィシャイ・コーエン・トリオを脱退した彼は現在、次なるアルバムの制作に着手しており、Instagramなどで日々情報を発信している。
Elchin Shirinov – piano
Andrea Di Biase – double bass
Dave Hamblett – drums