2025年のジャズで重要な1枚、リンダ・オー『Strange Heavens』
マレーシア出身のベーシスト/作曲家リンダ・メイ・ハン・オー(Linda May Han Oh)の2025年新譜『Strange Heavens』がリリースされた。今作は2009年の彼女のデビュー作『Entry』以来となるコードレス・トリオ(ピアノやギターといったコード楽器を伴わないトリオ編成)に戻った作品であり、これまでも共演を重ねてきたトランペッターのアンブローズ・アキンムシーレ(Ambrose Akinmusire)とドラマーのタイショーン・ソーリー(Tyshawn Sorey)という現代ジャズ界の最高の奏者を迎え、終始スリリングな演奏が繰り広げられる聴き応え充分なアルバムとなっている。
力強いダブルベースのシークエンスで始まる(1)「Portal」は、現代のソーシャルメディアの洪水のような絶え間ない情報の流れからくる心理的なストレスをテーマにした楽曲。コード楽器がない分、リンダ・オーのベースは低域から中域までを広く使い、和音も弾きながら自由自在にスペースを活用し縦横無尽に動きまわる演奏を聴かせ、早くもこの編成の意義を強く印象付ける。楽曲は緊張感に満ち、特にタイショーン・ソーリーのポリリズミックなドラミングはSNSの“意図されたカオス”を表現しているように思える。
表題曲(2)「Strange Heavens」は、アルバム全体のテーマである「見慣れた地獄を選ぶよりも、見知らぬ天国を選ぶべき」という彼女の人生哲学を反映する。アンブローズ・アキンムシーレのトランペットの切り裂くような高音と、囁くような柔らかい音の対比が効果的だ。現代社会の人々は自己破壊的な“地獄”の選択を繰り返すが、理想や希望が「見知らぬ(strange)」ものでありながらも、追求する価値があることを示唆。リンダ・オーは、ソーシャルメディアや政治的分断など“見慣れた地獄”に飼い慣らされる現代人を批判しつつ、新たな可能性への希望を力強く表現している。
(3)「Living Proof」(生きる証)は、困難を乗り越え、存在そのものが希望や強さの証明となる人々への賛歌だ。この曲はリンダ・オーの母親の人生にインスパイアされたもので、移民としての苦労や逆境を乗り越えてきた母の強さを象徴している。パンクロックからの影響は、単なる音楽的選択ではなく、社会や個人の抑圧に対する反抗や自己主張を感じさせる。
オーストラリアの絵本作家/映像作家であるショーン・タン(Shaun Tan, 1974 – )からの影響は(7)「Home」から(10)「Work Song」までの4曲に強く反映されている。ショーン・タンによる文字も言葉も使わずに世界中に感動を与えたグラフィックノベル『The Arrival』(2006年)で描かれたような、移民が新しい国で直面する挑戦と適応の物語をなぞるように作曲されたこれらの楽曲は、単なる音楽的インスピレーションを超え、彼女のこれまでの人生での経験ゆえにリアルに生々しく響いている。
Linda May Han Oh 略歴
リンダ・メイ・ハン・オーは中国系移民の両親のもと、1984年8月25日にマレーシアで生まれた。その後4才で家族でオーストラリア西部の都市パースに移住。4歳からクラシックピアノを教わり、10代前半でクラリネットやファゴットといった管楽器を習得し、高校時代にはレッド・ホット・チリ・ペッパーズなどの曲を演奏するカヴァーバンドでベースを担当していたようだ。2002年頃よりジャズを学び、当初はレイ・ブラウン、スコット・ラファロ、チャーリー・ヘイデンといったベーシストの参加作品からジャズのベースを学んだ。
その後オーストラリアで数々のコンペティションで優勝、奨学金を得た彼女は2006年に米国ニューヨークに移り、マンハッタン音楽院で学ぶ(同級生には後に夫となるピアニスト、ファビアン・アルマザンも)。その後も権威あるセロニアス・モンク・ベース・コンペティションで受賞するなど輝かしい経歴を辿り、大御所ギタリスト、パット・メセニー(Pat Metheny)のツアーに参加するなど現代ジャズを代表するベーシストにまで登りつめた。
近年はジョン・バティース(Jon Batiste, “ジョン・バティステ”とも表記される)の音楽監督の下、ピクサー映画『ソウルフル・ワールド』のミュージシャンの一人としてフィーチュアされたり、テリ・リン・キャリントン(Terri Lyne Carrington)による女性作曲家に光を当てるプロジェクト『New Standards, Vol. 1』のアンサンブルの一員としてグラミー賞最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・アルバム賞を受賞するなど、現在のジャズシーンでの存在感はますます高まっている。
Linda May Han Oh – electric/acoustic bass, voice
Ambrose Akinmusire – trumpet
Tyshawn Sorey – drums