映画『ニホンジン』を観てから読む原作『ニホンジン』─ 映画では描かれなかった、もう一つの家族の物語

  • 2026-08-17
  • 2026-08-17
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『ニホンジン』
オスカール・ナカザト 著/武田千香 訳
水声社「ブラジル現代文学コレクション」、2022年刊。原著は2011年刊行で、2012年にジャブチ賞小説部門第1位を受賞している。

原作『ニホンジン』 (著=オスカール・ナカザト 訳=武田千香)は、出版社のオンラインショップから購入することができる。

監督:セリア・カトゥンダ 脚本:リタ・カトゥンダ 声の出演:ケン・カネコ ピエトロ・タケダ 原作:オスカール・ナカザト『ニホンジン』 美術着想:大岩オスカール
2025 年/ブラジル/ポルトガル語・日本語/カラー/4K/5.1ch/84 分/英題『My Grandfather Is a Nihonjin』© 2025 Pinguim Content. All Rights Reserved
後援:在日ブラジル連邦共和国大使館 ギマランイス・ホーザ文化院 在浜松ブラジル総領事館 在名古屋ブラジル総領事館 在東京ブラジル総領事館
配給:2ミーターテインメント 協力:ノウアイデアデザイン株式会社 DCP 制作:s.e.a. 日本語字幕:宮下ケレコンえりか
https://nihonjin.2-meter.net


 映画『ニホンジン』を観たあとで、原作小説『ニホンジン』を読むと、かなり印象が変わる。

 ヒデオ、ノボル、ハルオといった人物は共通しているが、人物関係や出来事には大きな違いがある。映画では整理された家族関係が、原作ではもっと複雑で、そこには映画でほとんど描かれなかった人物たちの人生もある。

 セリア・カトゥンダ監督によるアニメーション映画『ニホンジン』は、原作をそのまま映像化した作品ではない。

 映画では10歳の少年ノボルが、学校の課題をきっかけに祖父ヒデオから日本人移民の歴史を聞き始める。そして、それまで家族の中で語られてこなかった叔父ハルオの存在に近づいていく。

 祖父と孫。
 過去を語る人と、その話を聞く人。

 映画はこの関係を中心に、複雑な原作をわかりやすい物語へ組み替えている。

 一方、原作はもっと暗く、家族関係も入り組んでいる。

 ヒデオは映画以上に難しい人物であり、ハルオの運命も大きく異なる。さらに、映画ではほとんど描かれないスミエやキミエといった女性たちが、原作では重要な位置を占めている。

 映画を観たからこそ気づける、原作との違い。

 ここでは、その違いを中心に『ニホンジン』を紹介してみたい。

※以下、映画と原作の重要な展開、結末にも触れます。


原作は、映画の「完全版」ではない

まず押さえておきたいのは、原作を映画の「完全版」と考えない方がいいということだ。

もちろん、原作には映画で省略された人物や出来事がたくさんある。

しかし、
「映画で省略された部分を、原作で補う」
というだけの関係ではない。

映画は原作を短くした作品ではなく、原作を別の方向から再構成した作品と考えた方がわかりやすい。

映画化にあたっては、原作にある不倫や殺人などの重い出来事が省かれた。一方で、日本人移民、コーヒー農園での生活、第二次世界大戦下の日系人への抑圧、日本の敗戦をめぐる日系社会の分裂といった、物語の中心的なテーマは残されている。

だから両者を比べるときに面白いのは、
「何が削られたか」だけではなく、「なぜ映画ではそう変えたのか」
という点だ。

その最も大きな変更の一つが、ノボルである。


映画では10歳。原作のノボルは大人

映画のノボルは10歳。
学校で家族のルーツを調べる課題を出され、祖父ヒデオに昔のことを尋ねる。
この設定によって、観客もノボルと同じ立場から、日本人移民の歴史を知ることができる。

なぜ日本人はブラジルへ渡ったのか。
戦争中、日系人に何が起きたのか。
なぜ日本の敗戦をめぐって、日系社会が分裂したのか。

ノボルが知ることを、観客も一緒に知っていく。

しかし原作のノボルは子どもではない。
すでに大人になった日系三世が、自分が生まれる以前から続いてきた一族の歴史を振り返っている。
この違いは大きい。

映画のノボルが、
「家族の過去を初めて知る少年」
だとすれば、原作のノボルは、

「残された記憶や資料から家族の過去を再構成する大人」
である。

当然、ノボルはヒデオが日本からブラジルへ渡った場面を見ていない。
最初の妻キミエとの生活も、コーヒー農園での日々も、第二次世界大戦も、自分自身の経験ではない。
それでも小説では、それらが具体的な場面として描かれる。

ノボルは、祖父や親族から聞いた話、写真、歴史資料、自分自身の記憶を組み合わせる。そして、どうしても埋まらない部分には想像力を使う。

『ニホンジン』についての研究でも、ノボルは単なる聞き手や記録係ではなく、家族の記憶を組み立て直す語り手として捉えられてきた。

この視点を持つと、映画の回想シーンも少し違って見えてくる。

画面に映る過去は、「実際に起きたことの再現」というより、祖父の記憶を聞いた少年ノボルが頭の中で想像している世界とも考えられる。


原作のヒデオは、映画より難しい人物

映画のヒデオは頑固で、昔ながらの日本人としての価値観を強く持っている。
ブラジルで生まれた息子ハルオとの間にも大きな溝がある。
それでも映画では、ヒデオがどんな人生を歩んできたのかを知るにつれ、観客は少しずつ彼を理解できるようになっていく。

日本へ帰るつもりでブラジルへ渡ったこと。
農園で苦労したこと。
日本人として家族を守ろうとしたこと。
そして、息子との関係を長く引きずってきたこと。

原作のヒデオは、さらに複雑だ。
日本という国家や天皇、日本人としての純粋性を強く信じ、それをブラジルで生まれた子どもたちにも求める。

息子ハルオがブラジル人として生きようとしても、簡単には認めない。
娘スミエが日系人ではない男性を愛しても、受け入れない。
日本の敗戦についても、長く認めようとしない。

原作を読むと、ヒデオの言動に強く反発する場面もある。
しかし小説は、彼を単純な悪役にはしていない。

なぜヒデオはそこまで「ニホンジン」であることにこだわったのか。
その背景を考えると、彼の人物像が見えやすくなる。

ヒデオは日本へ帰るつもりでブラジルへ渡った。
しかし結局、帰れなかった。

子どもたちはブラジルで生まれ、ポルトガル語を話し、ブラジル社会で育つ。
日本語や日本文化から少しずつ離れていく。

そして、ヒデオが絶対に負けないと信じていた日本は、第二次世界大戦で敗れる。

彼が守ろうとしている「日本」は、時間とともに失われていくものでもあった。
だからこそ、より強く執着した。

原作は、ヒデオの行動を正当化するわけではない。
ただ、なぜそのような人物になったのかを理解しようとする。
そこが、この小説の重要なところだ。


映画で最も大きく変わった人物、ハルオ

映画を観たあとに原作を読むと、最も大きな違いを感じる人物の一人がハルオだろう。
映画では、ノボルが存在さえ知らなかった叔父として登場する。

なぜ祖父はハルオについて語らないのか。
父と息子の間に何があったのか。
その謎が物語の大きな軸になっている。

そして映画は、その断絶を最終的に「再会」の可能性へつないでいく。
しかし原作では、ハルオの運命はまったく違う。

原作のハルオは、ブラジルで生まれ育った二世として、父以上にはっきりとブラジル社会に自分の居場所を見つけようとする。

ブラジルの学校へ通う。
日系人だけではない友人を持つ。
イタリア系の家庭にも出入りする。
ポレンタを食べる。

父が「お前は日本人だ」と言っても、彼にとって日常生活の現実はブラジルにある。
その父子の対立を決定的にするのが、日本の敗戦である。

ヒデオは日本の敗戦を受け入れない。
ハルオは敗戦を事実として認める。

原作では、この違いが命に関わる問題へ発展する。
敗戦を認めたハルオは「裏切り者」とみなされ、最終的には殺される。

ここが映画版との最大級の違いだ。
原作のヒデオには、息子ともう一度向き合う機会がない。

後になって自分の誤りに気づいたとしても、取り返すことはできない。

つまり原作では、
「理解するのが遅すぎた父」
という側面が非常に強い。

映画はそこを、
「まだ向き合う可能性が残されている父と息子」
へと変えた。

原作は、歴史的な分断によって家族に残った取り返しのつかない傷を描く。
映画は、次の世代がその過去を掘り起こすことで、対話を取り戻せる可能性を描く。

両者の方向性はかなり違う。
だからこそ、原作を読んだあとに映画の終盤を思い返すと、その変更の意味がよくわかる。


映画からほとんど姿を消したスミエ

原作を読むなら、ぜひ注目してほしい人物がいる。
ヒデオの娘、スミエである。

スミエは、語り手ノボルの母でもある。
映画ではヒデオとハルオの父子関係が大きく扱われるが、原作ではスミエの人生も、それと同じくらい重要だ。

ハルオが、
国家、戦争、民族、ブラジル人として生きること
をめぐって父ヒデオと衝突する人物だとすれば、

スミエは、
恋愛、結婚、家族、女性の生き方
という側面から父の価値観にぶつかる。

スミエはフェルナンドという日系人ではない男性を愛する。
しかしヒデオは、その関係を認めない。

家族からは、食べ物が違う、宗教が違う、生活習慣が違う、といったことも理由として挙げられる。

結局、スミエはフェルナンドとの結婚をあきらめ、日系人のオサムと結婚する。
三人の子どもを持つ。
その末の息子がノボルである。

しかし、その結婚生活の中でスミエは幸福になれない。
やがて彼女は夫と子どもたちのもとを離れ、フェルナンドのもとへ向かう。

ここは簡単に評価できない。
スミエを「古い価値観から自由になった女性」とだけ見ることはできない。
自分の人生を選び直した一方で、夫や三人の子どもを傷つけたことも事実だからだ。
そして、その子どもの一人がノボルである。

だから原作のノボルが家族の歴史をたどることには、映画以上に個人的な意味がある。
彼が知りたいのは、単に、
「日本人移民とは何だったのか」
ではない。

「なぜ、自分の家族はこうなったのか」
なのである。

祖父の過去を調べることが、母の人生を理解することにつながり、それが最終的には自分自身を理解することにつながる。
ここが原作の大きな特徴だ。


スミエは「ブラジル人になった」のではない

スミエの物語で重要なのは、彼女がブラジル人男性を選んだからといって、「日本人であること」を完全に捨てたわけではないという点だ。

『ニホンジン』についての研究では、日系社会における「内」と「外」という意識がよく論じられている。

ヒデオにとって、日系人は「内側」。
ブラジル人は「外側」。

実際にはヒデオ自身がブラジルへ移住してきた外国人なのだが、精神的には「われわれ日本人」を内側に置いている。

スミエは、その境界を越える。
ただし彼女自身は、なお自分をnihonjinだと感じている。

つまり、
「日本人からブラジル人になった」
という単純な変化ではない。

彼女が拒んだのは、
「日本人であるなら、父が決めた通りに生きなければならない」
という考え方だった。

この違いはかなり重要だ。
映画では主にハルオが担っている「日本人とは何か」という問いを、原作ではスミエも別の角度から担っている。


キミエがいることで、原作は「成功した移民の物語」ではなくなる

もう一人、原作で重要なのがヒデオの最初の妻キミエである。
キミエはヒデオとともに日本からブラジルへ渡る。
しかしブラジルでの生活にうまく適応できない。
故郷の日本を恋しく思い、農園での過酷な生活に疲弊する。

ヒデオが考える、
「ブラジルで働き、成功して、日本へ帰る」
という人生設計に、キミエはうまく入ることができない。

原作には、同じく日本から渡ってきたジンタロウとの感情的なつながりも描かれる。

ここで見えてくるのは、移民した人間が全員、新しい土地に適応し、成功したわけではないということだ。

日本人ブラジル移民の歴史は、ともすると、

過酷な労働に耐え、
独立し、
土地を持ち、
商売や農業で成功し、
子どもを教育した、

という物語として語られやすい。

しかし、その途中で挫折した人もいる。
新しい土地になじめなかった人もいる。
日本へ帰りたかった人もいる。
家族の期待に応えられなかった人もいる。

キミエの存在によって、『ニホンジン』は単純な「移民成功物語」ではなくなる。
原作の面白さは、成功した人だけでなく、その物語からこぼれた人まで描いていることにある。


原作では、食べ物もアイデンティティの問題になる

原作を読むと、「日本人であること」がかなり細かな生活習慣にまで関わっていることがわかる。

何を食べるか。
どんな料理を作るか。
誰と食卓を囲むか。
家の中でどう振る舞うか。

こうした日常生活も、nihonjinとgaijinを分ける境界として描かれる。

たとえばハルオは、イタリア系の友人の家でポレンタを食べ、母に作り方を覚えてほしいと頼む。
一見すると何でもない場面だ。

しかし家族の側からすれば、
「なぜ日本人の子どもが、外国人の食べ物を好むのか」
という問題になる。

スミエが日系人ではないフェルナンドと結婚しようとする場面でも、食べ物や宗教、生活習慣の違いが理由として語られる。

つまり原作では、「日本人であること」は国家や血統だけの問題ではない。

毎日何を食べるか。
誰と暮らすか。
どんな家族をつくるか。
そのレベルにまで入り込んでいる。

だから二世の子どもたちが父親から離れていくことも、思想上の反抗だけではない。
日々の暮らし方そのものを変えていくことなのである。


写真があっても、家族の歴史は完成しない

映画を観た人には、原作でもぜひ写真に注目してほしい。

映画では、古い家族写真がノボルを家族の秘密へ導く重要な役割を持つ。
原作でも、写真は過去を知るための大切な手がかりだ。

たとえばキミエ。

ノボルは彼女の人生を直接知らない。
残っている写真と、祖父や親族から聞いた断片的な話をつなぎ合わせて、その人物を想像する。

『ニホンジン』研究でも、写真、家族の証言、歴史資料、そして想像力が組み合わさって、ノボルの家族史がつくられていることが指摘されてきた。

写真には、ある瞬間にその人が存在したことは残る。

しかし、
何を考えていたのか。
誰を愛していたのか。
何を苦しんでいたのか。
なぜ家族から離れたのか。

まではわからない。
そこから先は、話を聞き、資料を調べ、想像するしかない。

写真は家族の歴史そのものではなく、家族の歴史を考え始めるための手がかりなのである。


原作では「誰が語らなかったか」も重要

家族の歴史というと、誰が何を話したかに注目しがちだ。

しかし『ニホンジン』では、
誰が何を話さなかったのか
も重要である。

キミエについて語られることは少ない。
スミエについても、家族は簡単には語りたがらない。
ハルオについても、痛みが沈黙を生む。

こうして、家族の中には、
「確かに存在したのに、家族の物語からは消えている人」
が生まれる。

原作についての研究でも、この沈黙は重要なテーマとして扱われてきた。
家族の記憶は、覚えていることの全部ではない。

何を語るか。
何を語らないか。
何を次の世代へ伝えるか。
その選択によっても形づくられる。

だからノボルは、祖父の話を聞くだけでは足りない。
語られなかった部分についても考えなければならない。


映画は原作を「優しくした」だけではない

映画について、
「原作より子ども向けに柔らかくした」
という説明は間違いではない。

実際、不倫や殺人など、原作にある重い出来事は大幅に整理されている。
しかし、それだけでは映画版の特徴を十分に説明できない。
映画は、原作の暗い部分を削っただけではなく、物語が向かう方向そのものを変えている。

原作では、
ハルオは死ぬ。
スミエは家族を離れる。
キミエは亡くなる。
ヒデオは後悔する。

しかし、起きたことを取り戻すことはできない。

家族には、修復できない傷が残る。
一方、映画では10歳のノボルが、家族が長く語らなかった過去を調べる。

そして祖父に問い続ける。
そこにあるのは、
過去そのものは変えられなくても、過去についてもう一度話すことはできる
という考え方だ。

原作が、家族に残った傷の大きさを描く作品だとすれば、
映画は、次の世代がその傷について問い直すことで、新しい関係をつくる可能性を描いた作品とも言える。


原作の最後では、ノボル自身が日本へ渡る

映画には描かれないが、原作の後半にはもう一つ重要な展開がある。
ノボル自身が日本へ行くのである。

祖父ヒデオが、
日本 → ブラジル
へ渡ったのに対し、

孫ノボルは、
ブラジル → 日本
へ渡る。

いわゆるデカセギである。

この移動は、原作全体を考えるうえで重要だ。
ヒデオは日本へ帰ることを願い続けながら、結局帰れなかった。
その孫が、何十年も後に日本へ向かう。
ただし、ノボルにとって日本は本当に「帰る場所」なのだろうか。

彼は日本生まれではない。
ブラジルで育った。
日系三世である。

ブラジルでは外見や名字から「日本人」とみなされることがある。
しかし日本へ行けば、今度は「ブラジル人」として見られる。

ここでも、
「日本人なのか、ブラジル人なのか」
という問いは簡単には答えられない。

原作のノボルが立っているのは、どちらか一方ではなく、その間にある場所なのである。


「ニホンジン」は、誰を指す言葉なのか

原作の題名は、
『Nihonjin』
ただ一語である。

映画のポルトガル語原題は、
『Eu e Meu Avô Nihonjin』
「僕と、僕のニホンジンのおじいちゃん」。

映画では、「ニホンジン」はまず祖父ヒデオを指す。
日本で生まれ、ブラジルへ渡った人物だ。

しかし原作を読むと、この言葉が誰を指すのかは、だんだん曖昧になる。

ヒデオはnihonjinだろう。

ではハルオは?
日本人の両親から生まれたが、自分をブラジル人だと感じている。

ではスミエは?
ブラジル人男性を愛し、日系社会の規範から離れながらも、自分自身をnihonjinだと考えている。

そしてノボルは?
ブラジルで育った日系三世で、最後には日本へ働きに行く。
ブラジルでは「日本人」と見られ、日本では「ブラジル人」と見られる。

原作についての研究でも、こうした人物たちは、日本人かブラジル人かのどちらか一方に整理できる存在ではなく、二つの文化が交わる場所にいると考えられてきた。

その意味では、『ニホンジン』という題名そのものが、作品全体を通じた問いになっている。
日本人とは、誰のことなのか。


映画を観てから原作を読む意味

原作『ニホンジン』は、映画でわからなかった部分を説明してくれる解説書ではない。

むしろ原作を読むと、映画で一度理解したつもりになったことが、もう一度複雑になる。

ヒデオをどこまで理解できるのか。
ハルオは日本人なのか、ブラジル人なのか。
スミエは家族を捨てたのか、それとも自分の人生を取り戻したのか。
キミエは弱かったのか。それとも、移民という生活が彼女に合わなかったのか。
祖父が語る家族史は、どこまで事実なのか。

そして、誰も語らなかった過去は、どうやって次の世代へ伝わるのか。

原作は、こうした問いに簡単な答えを出さない。

映画は、複雑な原作から一つの軸を選んだ。
祖父から孫へ、記憶が受け渡される物語。

原作を読むと、その軸の周囲に、映画では大きく扱われなかった人々の人生が見えてくる。

キミエ。
スミエ。
原作のハルオ。
ジンタロウ。

そして、それぞれの人物から見たヒデオ。

さらに、一世、二世、三世と世代が変わるにつれて変化していく「日本人」という言葉の意味。
映画を観たあとだからこそ、その違いがよくわかる。


映画『ニホンジン』を観て、
「もっとこの家族について知りたい」
と思った人には、ぜひ原作を読んでみてほしい。

そこにあるのは、映画より詳しい同じ話ではない。
もっと複雑で、矛盾が多く、簡単には理解しきれない家族の物語である。

だからこそ、
なぜ人は、自分の家族の過去を知ろうとするのか。
という映画の問いも、原作を読むことでさらに深くなる。

過去を知ったからといって、家族の傷が消えるわけではない。
誰かの行動を許せるようになるとも限らない。
それでも、知らなければ理解できないことがある。

映画でノボルが祖父の話を聞いたあと、その先にあるもっと複雑な一族の歴史を知りたくなったなら、原作『ニホンジン』は、その続きを考えるための一冊になる。


書籍情報

『ニホンジン』
オスカール・ナカザト 著/武田千香 訳
水声社「ブラジル現代文学コレクション」、2022年刊。
原著『Nihonjin』は2011年刊行。2012年、ジャブチ賞小説部門第1位。

原作『ニホンジン』 (著=オスカール・ナカザト 訳=武田千香)は、出版社のオンラインショップから購入することができる。


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