【インタビュー】日々の暮らしにやさしく寄り添うアンサリー新譜『はじまりのとき』

Ann Sally - はじまりのとき

日々の暮らしにやさしく寄り添うアンサリー新譜『はじまりのとき』

アンサリー はじまりのとき

2001年に洋楽やブラジル音楽をカヴァーした名盤『Voyage』でデビューして以来ずっと、アン・サリー(Ann Sally)は歌手と内科医という二足の草鞋を履き多忙な日々を送りながら、いつも天使のような、あるいは優しい隣人のような穏やかな歌声で私たちの心の疲れを癒してくれてきた。

そんな希代のシンガーソングライターの待望の新譜『はじまりのとき』は、社会や人々の暮らしがとても大きく変化したまま、伸びきったゴムのように元通りに戻らず、多くの人々が疲弊し消耗することに慣れてしまったこの時代に、失われかけた温かな気持ちを自然と取り戻させてくれるような素敵なアルバムだった。

冒頭に収められた「かぞくのじかん」から再生してみる。
スティールパンによる印象的なイントロの後に聴こえてきたいつもの歌声、そして飾らない日常を歌う彼女の言葉を聴くうちに、なぜだか自然と涙が込み上げてくる。……激変する時代のなかにあっても、ずっと変わらないでいてほしいと切に願う小さな日常が歌の中に大切に込められていた。

インタビューによってあとから知ったことだが、「かぞくのじかん」は新型コロナ禍によるパンデミックの前に書かれた曲とのこと。
幸せな日々を「変わらないであってほしい」と願う気持ちは、それがいつか必ず変わってしまうことを心のどこかで知っているから生まれるものだ。楽観的で幸福感のある曲調と歌声の向こうにある切実な想いが、どうしたって不安な感情に支配されがちな今の時代のなかでは言葉に言い表すことが難しいほどに生々しく、心の奥深くに響いてくる。

私にとって、このアルバムは裏返しになったままの日常からの逃避行の心の薬として作用するもののように感じた。
そう、この「安心感」が、ずっと欲しかったんだ。

彼女の歌声は、どんなときも優しく寄り添ってくれる。

シンガーソングライターとしての魅力が溢れた作品

『はじまりのとき』は13曲中10曲がオリジナルで、これまで以上に彼女の等身大の感情が素直に現れている。飾らない言葉とメロディーがすっと心の隙間に染み込んでくるような彼女の歌は、多くの人にとってこれからの人生で大切な宝物になると思う。

アンサリー はじまりのとき

今回は音楽家としてだけでなく医師として・そして母親として日々の生活を送るアンサリーさんに、これらの楽曲が生まれた背景などをインタビューさせていただいた。

アンサリー『はじまりのとき』 インタビュー

── この2年ほど、医療関係者は本当に大変だったと思います。
医療従事者と歌手、そして二人のお年頃の娘さんの母親といういくつかの立場をお持ちのアンサリーさんにとって、この2年間で心境の変化はありましたか。

アンサリー この間、どなたにとってもコロナのために生活の変化が大きい二年間だったと思います。
それまでは平日は医療勤務、週末は演奏活動ということが生活のルーティンとなっていましたが、真っ先にライブが激減し、しばしばあった地方への遠征もなくなりました。

暮らしが変化することで、真っ先に影響を受けているのは子供たちだと感じています。夏や冬の休みは地元を離れて家族で少し遠くへ旅に出かけたりすることは子供にとって視野を広げるよい機会だったと思いますが、それが叶わなくなり、すっかり家で過ごすことがメインになったり、常にマスク越しにしか人と接さないという生活上の変化が長期的に子供たちにもたらす影響は計り知れないのではないかと感じています。親、周りの大人として少しでもそれを補足できることはないかと、日頃から考え、音楽にも何か担える役割があるのではないかなと思っています。

── 最近は自作曲が増えていますが、アンサリーさんはどのように曲づくりを行なっているのでしょうか?

アンサリー 私が曲を作るときは、まずは曲として歌いたい心象風景を思い浮かべながらメロディーを作ります。メロ先がほとんどです。メロディーを作る時には既にバックにハーモニーが浮かんでいるので、メロディーとコードを譜面に書き起こします。それをピアノで弾きメロディーを歌ったものをスマホで録音して持ち歩き繰り返し聴きます。そこに少しずつ言葉を抽出するように歌詞を書いていきます。歌詞を書きながらメロディーも微調整し練り上げます。歌詞がすべてできる頃には曲の構成や曲調、演奏の編成もある程度決まってきます。最終的にイントロ、アウトロのフレーズを作り譜面に書き、コードやメロディーをさらに練り上げます。最終的に清書した譜面とピアノで弾いた音源をミュージシャンに送り、リハーサルで実際に演奏しながら、さらにコードやメロディー、曲の構成を練り上げていき、その曲の求めている姿まで完成させていくというやり方です。

── 特に「かぞくのじかん」「夜の帳が降りてきたら」は母親としてのアンさんの暮らしそのものと言っても良いような歌詞で、微笑ましい感じがしました。
どのようなシチュエーションで生まれた曲なのでしょうか?

アンサリー 「かぞくのじかん」はコロナの前に作った曲なのです。休日の朝ゆっくりと家族たちが起きてくる前に、一人でそろっと歩きに出かけることがあるのですが、その時の気持ちを歌っています。

子供がある程度大きくなり、何もかも助けが必要だった時期を越えると、母としてだけではなく一人の人間、一人の女性として何を思うか、と自分と対峙する時間が少しずつですが戻ってきます。独りになって歩くのはとても大切な時間で、歩く効用か図らずも日頃の我が身を振り返って客観視したり、今度はこうしてみようかと構想やアイデアが自然に浮かぶ時間になっています。中年期に入り、体調や気持ちに今までになかったような変動が起こる人生のフェーズの中で、歌詞にもあるように歩く足取りが心のペースメーカーになって、今この時を生きる時間に引き戻す役割を果たしてくれている、そんな気持ちを歌っています。

「夜の帳」は ジャズのアドリブソロフレーズそのもののメロディーに歌詞を当てはめて歌うボーカリーズジャズのように、家族の愉快な食卓の風景を歌うとそのギャップが面白いんじゃないかなと思って作った曲です。これはあまり書き直ししたりせず一筆書きのようにババっと出来上がりました。

アンサリー はじまりのとき

── オリジナル曲が多いなか、3つのカヴァー曲が収録されています。
「楽観主義的人生観」[*1]「休日」[*2]の日本語の2曲はそれぞれとても素敵な歌で、私もお気に入りになりました!
また、ジャズスタンダードの「Stardust」は従来のアンさんの作品でしたら違和感はありませんが、今回のアルバムには珍しい選曲のようにも感じました。

*1 「楽観主義的人生観」…シンガーソングライター/ピアニストの矢舟テツローの作詞作曲。
*2 「休日」…夫婦デュオ「箱庭」の曲。箱庭の二人はアンサリーのライヴで出会い、結ばれたという。

アンサリー いつもはオリジナル曲もカバー曲も、その時に歌いたい曲という視点で垣根なく収録したアルバムが多かったのですが、今回はコロナ自粛でできた時間でオリジナル曲制作のピッチが急に上がったため、自作曲の比重が自然に多いアルバムになりました。

制作に並行して旧知の友人音楽家たちとメッセージやオンラインでやり取りする機会が増える中で、彼らの素敵な曲を取り上げてみようと思い立ったのが「楽観主義的人生観」「休日」を録音したきっかけです。

「Stardust」は昔から大好きな曲で、いつかアルバムに収録しようと見計らっていたのですが、ロスで活躍するギタリストで昔からの友人である森孝人さんに何か一曲参加頂こうと思った時に、豪華なアレンジが多いこの曲を敢えて森さんのギターとのシンプルなデュオで取り上げることにしました。

── 「忘られた歌をうたえ」は本当に韓国の伝統音楽を感じさせる素敵な曲ですが、これもオリジナルということに驚きました。やはり小さい頃から韓国の歌が身の回りにあって、心に染みついているということでしょうか?

アンサリー 実は、この曲はカヤグム[*3]とチャンゴ[*4]とともに何か演奏したいという構想だけが先にあって、友人から今回の素晴らしい奏者お二人をご紹介頂き、セッション日も決まってから、さて何を演奏しようという段となってせっかくだから作った曲にしようと浮かんできたメロディーをバーっと書いてできた曲です。あえて、こういう曲にしようと頭で考えたような作為を一切取り払って、自然に流れるように浮かぶままに一気に最後まで書き留めたメロディーです。祖父祖母が生きていた時代は、祝いや弔いなどの集まり事があると自然発生的に物置の奥からチャンゴが出てきて、皆が水を得た魚のように踊り歌い出す、という場に居合わせていた幼いころのノスタルジーと結びついている要素はあるかもしれません。

*3 カヤグム(伽耶琴)…朝鮮半島の伝統的な撥弦楽器。中国の古筝や日本の筝(琴)に似る。
*4 チャンゴ(杖鼓)…朝鮮半島の伝統的な打楽器。宮廷音楽から、民衆の音楽である農楽、仮面芝居のタルチュムまで広いジャンルのリズムを担う。

── 「忘られた歌をうたえ」もそうですが、韓国の伝統的なリズムには三拍子が多いですよね。

アンサリー なぜ三拍子が多いのかという理由はわからないのですが、もともと三拍子は騎馬民族のリズムであり、日本は農耕民族だから二拍子がベースになっている、という説がありますね。

朝鮮民謡は音楽のリズムと踊ることとの関係が重要そうな気がします。三拍子の中の独特のアクセントが踊るために適したリズムであるということとの関連もあるのではないかと個人的には考えています。

── 最後の「あの河のほとり」も三拍子の壮大な曲です。感動的な盛り上がりは名曲「時間旅行」を思い起こしました。
ニューオーリンズでの思い出や、郷愁のような感情を歌われていますが、アンさんにとってニューオリンズはどのような土地でしたか?

アンサリー かつて住んだニューオリンズは、私が日本へ戻った直後にハリケーン・カトリーナの甚大な被害に遭いました。ニューオリンズ在住中に制作した『ブランニューオリンズ』の関連コンサートでニューオリンズからミュージシャンを招聘した際に神戸公演があり、実際自身も被災している彼らが阪神淡路大震災に思いを馳せてくれた優しい眼差しが今も心に残っています。いくつかの震災、大災害を経て、またイデオロギーが人々を分断する時代の中で、かつて暗闇を経験した、あるいはその真っ只中に在る者たちについて思いを馳せた曲です。

アンサリー はじまりのとき

あえて時代の波を追いかけず、手や眼の行き届く範囲にお届けしたい」

── 最近はどんな音楽を聴かれていますか?お気に入りのアーティストなどがあれば教えてください。

アンサリー 常に大好きで一番聴いているのが、シルビア・ペレス・クルスの『間』[*5]という来日公演のライヴアルバムです。

ムジカテーハでおすすめされていたリタ・パイエス&エリザベト・ローマ[*6]も大好きになりました!
本当に大好きでよく聴いています。

こちらもおすすめされていた、サシャル・ヴァサンダーニの『Midnight Shelter』[*7]も最高です。

あとはPrinceの『Piano & a Microphone 1983』、ジョナサン・バティステなどをよく聴いています。

*5…スペインの歌手シルビア・ペレス・クルス(Sílvia Pérez Cruz)の『Estrela, Estrela (MA. Live In Tokyo)』は、2018年のブルーノート東京公演の模様を収めたライヴアルバム。

*6…ギタリストの母エリザベト・ローマ(Elisabeth Roma)と、トロンボーン奏者/歌手の娘リタ・パイエス(Rita Payés)のデュオ。詳細はこちら

*7…歌手サシャル・ヴァサンダーニ(Sachal Vasandani)とピアニストのロメイン・コリン(Romain Collin)が作り上げた“声とピアノ”のアルバム

── 今回のアルバムを、どんな人に届けたいですか?

アンサリー 音楽の面だけでも、カセットテープやレコードからCD、今では音楽配信と、物事が移り変わるスピードが早いですね。

今回もこれまでのリリース形態同様に、あえて時代の波を追いかけず、公式ショップやライブ会場での限定という形で、手や眼の行き届く範囲にお届けできれば良いなと考えています。

自分としては、可能な限り納得いくまで推敲して出来あがった大切なアルバムですので、この曲たちを好きになって下さる小さな波がじわじわと無理なく自然に広がってくれるといいなと思っています。

アンサリー新譜『はじまりのとき』ダイジェスト。

▷ アンサリー 公式オンラインショップ
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