パレスチナの鬼才ファラジュ・スレイマンが描く、非日常に生きる恋人たちの物語

Faraj Suleiman - Maryam

ピアニスト/SSW ファラジュ・スレイマンが描く物語

パレスチナ人として初のジャズ・ピアニストと言われるファラジュ・スレイマン(Faraj Suleiman) が新作『Maryam』をリリースした。衝撃的なプログレッシヴ・ジャズの前作『As much as it takes』のリリースが2023年9月29日。そのわずか10日後に彼の世界は一変し、一時はその怒りとショックから所謂西側メディアから姿を消してしまった彼だが、2024年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演を機に徐々に復帰。こうしてまた、素晴らしい音楽作品を届けてくれた。

今作はほとんどが歌曲で、アラブの大衆音楽、ジャズ、ロックに強く影響を受けている。ファラジュによると、当初の想定では「複雑な国を愛し、憧れ、夢を抱く少女マリアムについて語る」アルバムになるはずだった。収録楽曲はガザでの戦争前に書かれ始めたが、残りの多くは戦争中に書かれた。ファラジュ・スレイマンはアルバムの発売を予告する2024年末に投稿されたXへのポストの中で、「戦争が私たちの生活にもたらした全てのことと同様に、世界はひっくり返り、物語は歪められ、感情は喪失感、無力感、死の間で散乱し、このアルバムは真っ黒に染まってしまった」と語っている。

パレスチナの恋人たちの物語

アルバムで歌われる恋人同士の物語は現実社会とリンクし、あまりにも儚く残酷だ。
冒頭のごく短い(1)「Packed love」では何気ない日常──永遠に続くとも思える恋人たちの安らかな日常が歌われている。

時々、ふとそんな気がする
僕らは二人で家にいる
すべてが整い、愛は瓶詰め、
まるで二羽の小鳥のように

絨毯の上には溢れる静けさ
冷蔵庫には安らぎ
壁に残る料理の香り
私たちは二つの命を数える

幸せと愛 愛と幸せ
すべてが美しく 溢れんばかり
幸せで 愛し合って
愛に夢中

Faraj Suleiman – Packed Love

アルバム全編で歌詞を書いているのはパレスチナ出身の詩人/俳優のアメル・フレヘル(Amer Hlehel)。パレスチナ独立劇団シベルハール(アラビア語で「自由の広がり」 )を設立した人物であり、現代パレスチナ演劇文学の主要な作家である。彼が今作で書いた詩は直接的に悲劇や政治的主張を描くのではなく、若くごく普通の恋人の目を通して美しく詩的に日常を描き出す。

愛は脆く、儚い。
シンセサイザーの矩形波が強烈なインパクトとなっている(3)「Bye Bye Love」では、二人の愛は壊れ、すでに孤独と絶望へと変容している。

一人きりで映画を2本観る
眠気を覚まそうと
一人バーに座ってボーッとする
そして朝一番に家に帰る

両手で私たちの夢を壊す
壁に新しい色を塗る
君の絵の展覧会をなくして
代わりに叔母や伯母の絵を描く

私はまた孤独に戻った
スーパーマリオが目の前でジャンプしている
誰も気にしない 自由に生きていく
楽しく歌おう
さようなら、愛よ

Faraj Suleiman – Bye Bye Love

シンセサイザーの音色も強烈な印象を残す(3)「Bye Bye Love」

(5)「Fragments of Memory」は物語の主人公“マリアム”の象徴とも受け取れるナザレ出身のパレスチナ人ダンサー/歌手のディマ・ザフラン(Dima Zahran)が、ファラジュのピアノに乗せて儚げに歌う。

ディマ・ザフランが歌う(5)「Fragments of Memory」

(6)「Music of Black Finale」はアルバム中唯一のインストゥルメンタルで、トマス・ナウム(Thomas Naum)のギターと、ピエール・ミレー(Pierre Millet)のトランペットがトリルを多用したアラビックなフレーズを交互に奏で、夢のような日々が終わりを告げたことを突きつける。

ファラジュが歌う(7)「A Hell of a Dream」は“昨晩君の夢を見た”という一節から始まり、恋人の幻影を追うイメージが続くが、後半では“灰の海で目覚めた”“壊された道”といった破壊や死の現実がまとわりつく。

ラストは(10)「Counting two lives」。冒頭の曲の詩でも印象的に歌われた「ふたつの命を数える」というタイトルが、重い。歌詞も冒頭曲のものが繰り返されるが、加えて時の経過が“老い”という形で明示的に描かれている。パレスチナの今を想えば、時の経過そのものの貴重さを思い知らされる。それは普遍的なようでいて、ある境遇の人にとっては当たり前の話ではないのだ。

(10)「Counting two lives」。(ふたつの命を数える)

本作がリリースされた2025年1月17日には、2023年10月7日の事件をきっかけに始まったイスラエルとガザのイスラム組織ハマスとの間での戦争の停戦合意が報じられた。YouTubeのファラジュ・スレイマンのチャンネルにアップされた本作の楽曲には、大量のアラビア語のコメントがついており、多くの人々が彼の芸術の素晴らしさを讃え、そして平和を切望する様子を見ることができる。

パレスチナ初のジャズ・ピアニスト、Faraj Suleiman 略歴

ファラジュ・スレイマン(Faraj Suleiman, アラビア語:فرج سليمان)は1984年、パレスチナ北部のラマ村で生まれた。
3歳からピアノを始めてはいるものの、両親は父がおもちゃ商人、母が花屋という音楽的な環境ではなかった。唯一母方の叔父がヴァイオリンでアラビア音楽を演奏する人物であったため、幼少期はこの叔父の傍で多くの時を過ごした。

少年期は故郷の町で同世代のほかの少年たちと同じようにサッカーをして過ごした彼だったが、青年期の終わりに再び音楽に傾倒。そしてイスラエルの音楽教師アリー・シャピラ(Arie Shapira, 1943 – 2015)と決定的な出会いを果たし、音楽のみならずイスラエル人とパレスチナ人の間に横たわる様々な問題も議論する仲に。パレスチナでは周囲にロールモデルのない中で、ジャズ・ピアニストへの道を志すようになった。

2013年にハイファでアーティストとしての活動を開始。2014年にソロピアノ作品『Login』でアルバム・デビューし、以降毎年のように精力的に作品をリリース。2018年にはスイスのモントルー・ジャズフェスティヴァルに出演し、その模様はライヴ盤『Live at Montreux Jazz Festival 2018』で聴くことができる。
ピアノを中心としたバンド編成のインスト作品のほか、パレスチナの気鋭のジャーナリスト/詩人マジュド・カヤル(Majd Kayyal)と組んだ『Better Than Berlin』(2020年)や『Upright Biano』(2023年)といったヴォーカル作品も。さらには映画音楽を手がけるなどその創作活動は多岐にわたる。
現在はイスラエル・ハイファやフランス・パリを拠点に活動。

Faraj Suleiman – piano, vocal
Dima Zahran – vocal (1, 5)
Thomas Naum – guitar
Pierre Millet – trumpet
Yannick Benoist – saxophone
Vincent Aubert – trombone
Frédéric Chiffoleau – electric bass
Karl Jannuska – drums

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