ジャズ・スタンダードのある曲にまつわる、ひとつの謎
ジャズを聴いていると、たまに妙なところで引っかかることがある。
たとえば、有名なジャズ・スタンダード 「If I Should Lose You」 などはその典型だ。
ラルフ・レインジャー(Ralph Rainger)作曲、レオ・ロビン(Leo Robin)作詞。1935年に発表されたこの曲は、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)、チェット・ベイカー(Chet Baker)、ハンク・モブレー(Hank Mobley)、キース・ジャレット(Keith Jarrett)……と、実に多くのジャズ・ミュージシャンが録音してきた。
タイトルの意味は「もしあなたを失ったら」。
だから普通に考えれば、Lose である。
ところが、いろいろな録音を調べていると、どういうわけか “If I Should Loose You” という表記が出てくる。
しかも、これが1件や2件ではない。
最初は「よくあるスペルミスだろう」と思った。ところが、調べ始めると話はそれほど単純ではないみたいだ。
まず、1935年の楽譜は「Lose」
原点まで戻ってみる。
1935年に出版された楽譜1を見ると、タイトルははっきり If I Should Lose You となっている。
作曲はラルフ・レインジャー(Ralph Rainger)、作詞はレオ・ロビン(Leo Robin)。映画『Rose of the Rancho』のために書かれた曲である。
しかも楽譜の歌詞には、
If I should lose you
The stars would fall from the sky
とある。
少なくとも、作品が生まれた時点では Lose だったことは確認できる。
では、なぜジャズの世界では Loose が出てくるのか。
ここからが少しややこしい。
チャーリー・パーカーは「Lose」
まずはジャズの巨匠チャーリー・パーカー。
1949年に録音された「If I Should Lose You」は、パーカーのストリングス・セッションを代表する演奏のひとつだ。
Mercury 11037の78回転盤について、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館の所蔵資料ではタイトルが If I Should Lose You。Mercuryのディスコグラフィーでも同じ表記になっている。
つまり、ジャズ史におけるかなり早い時期の重要な録音は Lose である。
この時点では何もおかしくない。
ところが、バディ・デフランコを調べると……
1954年に録音されたバディ・デフランコ(Buddy DeFranco)のカルテットの演奏も、古いディスコグラフィーでは If I Should Lose You と記録されている。
ところが現在、ストリーミングでこの録音を探すと、Apple Musicなどでは、
If I Should Loose You
となっているもの2がある。
同じ録音なのに、資料によって綴りが違うという状態なのだ。
これはちょっと気になる。
「昔のレコードにLooseと印刷されていたのを、後世の人がそのまま写した」という話ならまだ分かる。しかし、古い資料ではLoseなのに、後年のデジタル・カタログでLooseになっている例もあるのだ。
ロニー・スコットにも「Loose」が現れる
さらに1954年。
ロニー・スコット(Ronnie Scott)が3月17日に録音した演奏にも、この曲がある。
現在販売されている資料では If I Should Loose You と表記されている。
ところが、Jazz Discographyで同じ録音を調べると、
If I Should Lose You
となっている。
つまりここでも、
Lose / Loose
が同じ録音を指している。
こうなると、単純な「配信サービスの誤植」という説明では片付けにくい。
ハンク・モブレーは「Lose」
1960年のハンク・モブレー(Hank Mobley)『Soul Station』では、話がまた元に戻る。
アルバムの最後に収録されているのが If I Should Lose You。
Blue Noteの公式情報もLoseである。
ところが、ジャズ関連の資料や教材を探していると、ハンク・モブレーの演奏についても Loose と書かれているものが見つかる。
一体どちらなのか。
そして、現在のレーベル公式ページにも「Loose」
ここでさらに話がややこしくなる。
ジョニー・グリフィン(Johnny Griffin)の『Catharsis!』。
Storyville Recordsの公式Bandcampを見ると、収録曲のひとつが、
If I Should Loose You
となっている。
「どこかのデータベースが間違えたのだろう」と思うかもしれない。
しかし、レーベル自身が公開している現在の作品情報である。
さらにStoryvilleのアート・テイタム(Art Tatum)の作品3にも Loose の表記が登場する。
つまり「Loose」は、ネット上の誰かが適当に書いたものとして片付けられる存在ではない。
アート・テイタムも「Loose」
イタリアの叙情派ピアニスト、エンリコ・ピエラヌンツィ(Enrico Pieranunzi)の『No Man’s Land』を調べても同じことが起こる。
ストリーミングでは、
If I Should Loose You
と表示されている。
ここまで来ると、さすがに「たまたま誰かがタイプミスしただけ」と考えるのも難しくなってくる。
しかも、この表記は1950年代の録音から現在の配信まで、断続的に現れる。
「Loose」は、いったいいつ生まれたのか
ここでひとつ、重要なことがある。
“Loose”という綴りが実際の録音や商品情報に存在することと、“Loose”がこの曲の正式なタイトルであることは、別の話だ。
1935年の出版譜はLose。
チャーリー・パーカー(Charlie Parker)の1949年録音もLose。
その後のさまざまな録音でもLoseが確認できる。
一方で、別の録音や再発盤、データベース、ストリーミングではLooseが現れる。
つまり、現状から言えるのは、
作品としてのタイトルは「If I Should Lose You」だが、録音や商品情報には「If I Should Loose You」という表記がかなり広く存在している
ということになる。
では、そのLooseはどこから来たのか。
ここが、実はまだよく分からない。
一度の誤植が、90年間コピーされた?
考えられるのは、どこかの時点で Lose → Loose という誤りが入り、それがディスコグラフィーやレコード会社の資料、再発盤、配信データなどを経由して広がったという可能性だ。
“lose”と“loose”は、英語圏でも間違えられやすい単語である。
しかもジャズの世界では、同じ曲が何十年にもわたって何度も録音される。
レコード会社が作ったカタログを別の会社が参照し、CDの曲目情報をディストリビューターが入力し、そのデータが配信サービスに渡される。
そのどこかで一度間違えば、間違った綴りが長く残ってしまうことは十分あり得る。
ただし、「最初に誰がLooseと書いたのか」までは、今のところ確認できない。
ここは面白いところで、少なくとも「1935年の原譜がLooseだった」という話ではない。
では、なぜ今でも「Loose」が消えないのか
おそらく、これも同じ理由なのだろう。
一度データベースに入った情報は、その後も別のデータベースや商品情報に利用される。
そして、音源を聴いただけでは LoseなのかLooseなのか分からない。
音はまったく同じだからだ。
その結果、誰かが過去の資料を見て曲名を入力するとき、「これは変な綴りだな」と思っても、元資料を確認しなければ、そのまま Loose が引き継がれてしまう。
実際、MusicBrainzでは、ある録音についてタイトルを If I Should Loose You としながら、その録音が演奏している作品そのものを If I Should Lose You と別に紐付けている。
この扱いは、この問題を考えるうえでなかなか象徴的だ。
「間違い」なのに、間違いではない?
結局のところ、この問題は少し奇妙である。
作品タイトルとしては Lose。
ところが、Looseと書かれた実際の音源・商品も確かに存在する。
だから「Looseは間違いだから無視すればいい」と言ってしまうと、今度は実際のレコードや配信情報の歴史を無視することになる。
逆に「Looseも正式なタイトル」と考えてしまうと、1935年の出版譜をはじめとする作品資料との整合が取れなくなる。
個人的には、この2つを無理にどちらか一方に統一するより、
“If I Should Lose You”という作品があり、その録音・商品情報の一部に“If I Should Loose You”という表記が長年残っている
と考えるのが一番しっくりくる。
たった一文字の違いだけれど
ジャズのスタンダードを調べていると、こういう小さな謎に出会うことがある。
誰が最初に間違えたのか。
なぜその表記が残ったのか。
どうして同じ録音について、ある資料ではLose、別の資料ではLooseになるのか。
今回の Lose / Loose も、そのひとつだ。
1935年に生まれた曲が、90年近くにわたって何度も録音され、そのたびにレコードになり、CDになり、データベースに登録され、そしてストリーミングへ渡っていく。
その長い伝言ゲームの途中で、いつの間にか ひとつの「o」 が増えてしまった。
そして、その一文字はいまも消えずに残っている。
ジャズを聴くとき、曲そのものだけでなく、こうした「曲がどう記録されてきたか」を追ってみるのも、なかなか面白い。
- If I Should Lose You – Mississippi State University Libraries ↩︎
- If I Should Loose You – Apple Music ↩︎
- If I Should Loose You – Apple Music ↩︎