アルメニアの伝統や中東の音色をジャズに混ぜた作品
アルメニアに生まれ、現在はフランスで活動する若手シンガー/作曲家ヴィクトリア・アレクサニャン(Victoria Alexanyan)の初のクインテット作品『VISHAP』。アルメニアの神話に登場する竜のような存在をタイトルに据えたこの作品では、ヴィシャップが千年の眠りから目覚めるというイメージがアルバム全体を貫いている。故郷の文化や歴史への思いを背景に、オリジナル曲に加え、アルメニアの伝統曲や作曲家コミタスの作品を独自に再解釈。複雑なリズムや即興演奏を織り交ぜたジャズを基調とする音楽を通じて、人々が歴史のなかで抱えてきた怒りや悲しみを詩的な表現へと昇華している。
ウードやネイを演奏するアミン・アル・アイディ(Amin Al Aiedy)、ピアノのヴァンサン・フォレスティエ(Vincent Forestier)、コントラバスのヤン・ファイフェ(Yann Phayphet)、ドラムスのマテオ・シエスラ(Matheo Ciesla)という顔ぶれがアレクサニャンの音楽を支える。とりわけ印象的なのが、イラク系のアミン・アル・アイディが奏でるウードやネイの音色がジャズのピアノトリオと交わることで生まれる独特の音楽的な奥行きだ。中東の伝統音楽を思わせる旋律や響きが、アルメニアの伝統と結びつき、ジャズという異文化の音楽的反応を促進する触媒のなかで激しく溶け合う。
アレクサニャンの歌声も、この作品の重要な魅力のひとつだ。旋律を伸びやかに歌い上げる場面だけでなく、言葉をひとつひとつ丁寧に置くような歌唱や、楽器の演奏に呼応する表現が、楽曲に豊かな陰影を与えている。アルメニアの歴史や文化に根ざした言葉と音楽を自身の声を通じて現在へとつなぐ。その歌唱には、個人的な記憶と、より大きな歴史の流れとが交差するような深遠の感覚がある。
ティグラン・ハマシアン(Tigran Hamasyan)が「Drip」のタイトルでカヴァーしたことで知られるカリン(現在のトルコ東部の都市エルズルムのアルメニア語呼称)に伝わる伝統曲(3)「L’eau coule du haut de la montagne」や、アルメニアの作曲家コミタス1に由来する(7)「Yerangi」では、受け継がれてきた旋律がクインテットの演奏によって新たな表情を見せる。古い音楽をそのまま再現するのではなく、即興演奏や現代的なアンサンブルのなかに置き直すことで、旋律に潜む情感やリズムの魅力を引き出している。一方、「Désordre nouveau」や「Nadir」などのオリジナル曲では、各楽器が緊密に呼応しながら、緊張感のある展開や繊細な音の重なりを生み出す。
アルバムの終盤を飾る「Quand le soleil se lèvera」、そして「自由」を意味する「Azat」へと至る流れも、作品に込められた思いを考えるうえで興味深い。神話的なイメージを出発点に、故郷の記憶や歴史、そこに生きる人々の感情を音楽へと変えていく『VISHAP』。アルメニアの文化的な背景と現代ジャズの自由な発想が交差する、アレクサニャンの表現世界を知るうえで重要な一作だ。
Victoria Alexanyan プロフィール
ヴィクトリア・アレクサニャンは、アルメニア出身の歌手/作曲家。1995年にアルメニアで生まれ、エレバン国立音楽院を卒業。ピアニストのヴァハグン・ハイラペティアン(Vahagn Hayrapetyan)にジャズを学んだ。
フランス語とフランス音楽への関心から、2018年にフランスへ移住し、リヨン音楽院で研鑽を積む。ジャズやフレンチ・シャンソン、アルメニアの伝統音楽など、複数の音楽文化に触れながら独自の表現を追求してきた。2020年に自身のプロジェクトを始動し、2022年にはアルメニアで初のツアーを開催。2023年にはCrest Jazz Vocalコンクールで2位に入賞した。
2025年には、フランスの音楽家支援機関ADAMIとジャズ・フェスティバル「Jazz Sous Les Pommiers」による研修・伴走支援プログラムに選出され、ヴォーカリストのレイラ・マルシャル(Leïla Martial)の指導を受ける。同年9月には、ドラマー/作曲家のアンヌ・パセオ(Anne Paceo)らが選出に携わる「Women in Jazz」の受賞者に選ばれた。
2026年2月、ウードやネイを含むクインテット編成で、アルメニアの神話や歴史、自由への希求を描いたアルバム『VISHAP』をリリース。故郷の文化的記憶と現代ジャズの即興性を結びつける音楽活動を展開している。音楽と並行して演劇にも取り組み、戯曲の執筆や演出も手がけている。
Victoria Alexanyan – vocals
Amin Al Aiedy – oud, nay
Vincent Forestier – piano
Yann Phayphet – double bass
Matheo Ciesla – drums, backing vocals
- コミタス・ヴァルダペット(Komitas Vardapet, 1869 – 1935)…アルメニアの作曲家、歌手、民族音楽研究者。アルメニアの伝統音楽を収集・研究し、その旋律や特徴を生かした作品を残した、同国の音楽史における重要人物。 ↩︎