アパルトヘイト、コサ族の伝統音楽、そして西洋のジャズ
南アフリカの現代ジャズシーンを代表するピアニスト/作曲家であるボカニ・ダイアー(Bokani Dyer)が、新作『Bokani Dyer Trio – Traditions』をリリースした。これまで自身のオリジナル曲を中心に作品を発表してきたダイアーが、初めてカバー曲を主体に制作したアルバムだ。南アフリカの伝統音楽やジャズ、父親であるサックス奏者スティーヴ・ダイアー(Steve Dyer)の楽曲、バッハのコラール、アメリカのスタンダードなどを取り上げ、ピアノ・トリオを軸とした編成で演奏している。全11曲を通して浮かび上がるのは、ダイアー自身がこれまでに接してきた多様な音楽の歴史だ。
本作を紹介するにあたって、まずは彼の生い立ちから説明が必要だろう。
ダイアーは1986年、南アフリカのアパルトヘイト1体制から逃れた父親が亡命生活を送っていたボツワナの首都ハボローネで生まれた。その後、南アフリカに移り住み、ケープタウン大学でジャズを学んだ。南アフリカの音楽家である父親の影響を受けながら、クラシック・ピアノやジャズにも親しんできた彼にとって、本作の選曲は自身の生い立ちや音楽遍歴を振り返る作業でもあった。
アルバムの冒頭を飾る(1)「African Piano: Inxembula」は、その制作意図を端的に示す。原曲は南アフリカのコサ人2に伝わる歌で、伝統的な弓奏楽器ウハディ3の奏者ノフィニシ・ディウィリ(Nofinishi Dywili)らによる演奏が知られている。ダイアーは以前、南アフリカの音楽著作権管理団体SAMROのアーカイブ制作に関わり伝統音楽の採譜に取り組んだ経験があり、その過程で出会った音楽を今回改めて自身の作品として取り上げた。
ウハディによる音楽には、西洋の和声理論とは異なる音の組み立て方やリズムの構造がある。ダイアーは原曲の旋律やリズムをできるだけ残すことを意識し、ピアノ、ベース、ドラムス、フルートによる演奏へと編曲したという。ティモシー・ノートン(Timothy Norton)が弾くアルコ(弓弾き)奏法によるコントラバスの低音は、リズムの脈動とベースラインを兼ね備えた、まさにウハディのグルーヴの再現だ。
南アフリカ・ジャズの先達への敬意も本作の重要なテーマとなっている。(3)「Thembisa」はピアニストのアンディレ・イェナナ(Andile Yenana)のアルバム『We Used to Dance』(2002年)で知られる楽曲。ここではダイアーがウィットウォーターズランド大学で教えていた際に出会ったという若手歌手フィービー・ングシャジ(Phoebe Mgxaji)をスキャットで迎え、新たな解釈を加えている。このフィービー・ングシャジの声はとても素晴らしく、彼女が続けて参加する(4)「Moya Interlude」とあわせ、特に南米ブラジルやアルゼンチンの現代ジャズのような清涼感がもたらされる。
(7)「Reconstruction & Development」は、父スティーヴ・ダイアーの作品のカヴァーだ。ボカニ・ダイアーの父は南アフリカのジャズ史において重要な役割を担ってきた音楽家であり、ボカニ自身の音楽的形成にも大きな影響を与えた。彼はインタビューで、父親が自分の音楽的探究を尊重し、自由に表現することを認めてくれたと振り返っている。
J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach)のコラール「Durch Adams Fall ist ganz verderbt」(アダムの罪により、ものみな滅びたり)と、ジミー・ヴァン・ヒューゼン(Jimmy Van Heusen)作曲のスタンダード(11)「But Beautiful」は、そうした南アフリカの音楽と並んで収録されている。アルバムを締めくくる後者ではダイアー自身が歌い(彼の声もまた、渋くてとても良い)、ヴァイオリニストのカベロ・モトロミ(Kabelo Motlhomi)が参加している。また(10)「Ropasci」にはモザンビーク出身のギタリスト、フリオ・シガウケ(Julio Sigauque)を迎えた。
本作のタイトルである『Traditions』は、ダイアーが影響を受けてきた複数の音楽的伝統を指している。
南アフリカの先住民の音楽、アパルトヘイトの歴史と結びついたジャズ、ヨーロッパのクラシック、アメリカのスタンダードなど、それぞれ異なる背景を持つ音楽を自身の経験を通して一枚のアルバムにまとめ上げたのが今作だ。ここには過去の音楽を受け継ぐことに加え、次の世代へ伝えていくという意識も感じられる。
Bokani Dyer Trio :
Bokani Dyer – piano, flute, vocals
Timothy Norton (Tim Norton) – bass
Lumanyano Mzi – drums
Guests :
Phoebe Mgxaji – vocals (3, 4)
Julio Sigauque – guitar (10)
Kabelo Motlhomi – violin (11)
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- アパルトヘイト(apartheid)…20世紀の南アフリカ共和国で実施された、白人と非白人(黒人など)を分離・差別する人種隔離政策。1948年に成立した国民党政権によって制度化され、強力に推進された。国内の反アパルトヘイト運動や国際社会からの圧力を背景に、当時の大統領フレデリック・ウィレム・デクラークと反体制運動の指導者ネルソン・マンデラらによる交渉が進み、1991年には主要な人種差別法が撤廃された。1994年には全人種が参加する初の民主的な総選挙が実施され、マンデラが大統領に就任。これをもってアパルトヘイト体制は正式に終焉した。 ↩︎
- コサ人(Xhosa)…南アフリカ共和国を中心に暮らすバンツー系の先住民族。人口は約790万人で、ズールー人に次ぐ同国で2番目に大きな民族グループ。 ↩︎
- ウハディ(uhadi)…コサ族の伝統的な弓奏楽器で、ブラジルの「ビリンバウ」のルーツ。ズールー族など南アフリカの他の民族にも同様の楽器がみられる。 ↩︎