『Eternal Homeland』
もはや問題ではない、
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もし誰かが私たちを愛してくれていても。
私たちは言葉にうんざりしている、言われた言葉も言われなかった言葉も、
手を差し伸べるだけで触れない手にはもううんざりだ。
見ているようで見ていない目。
私たちはこの終わりのない夜に疲れ果てている。
私たちのなれの果てにしがみつく、母たちの姿に疲れ果てている。
背中に負わされたこの岩、この永遠の呪いにうんざりしている。
深淵から深淵へ、私たちはそれを運ぶ。
死から死まで、
そして私たちは決して目的地にたどり着かない
冒頭の詩は、パレスチナ人の詩人サーメル・アブー・ハワーシュ(Samer Abu Hawwash, 1972 – )による2023年10月に発表された詩「It No Longer Matters If Anyone Loves Us」の一節だ。詩のなかで主人公は大きな愛に包まれて生まれてくるが、やがて爆弾がかつて愛の言葉を聞いたその耳を奪い、ミサイルが愛情に満ちた視線を交わしていたその目を奪う。そして彼はあの楽観的だった子供時代に謝罪するのだ「この世では、何者も生きるに値しない」、と。
絶望や苦しみというものは、当の本人にしかわからない。
他人の共感は、当人の苦しみの身代わりにはならない。
人は年をとるにつれ、孤独に歩くほかなくなる。
冒頭の詩では、最後に主人公は一粒の涙を流しながら絶望の言葉をつぶやく。
その涙に、私たちは彼のまだ諦めきれない希望を感じるのだ。
今回紹介する作品は、パレスチナの古都イェリコ1出身で、現在はベルギーを拠点とするクラリネット/ネイ奏者/作曲家アハメド・ハワーシュ(Ahmed Hawwash)のデビュー作『Eternal Homeland』(2025年)。祖国パレスチナへの望郷滲むタイトルが冠せられた本作は、同地の伝統的な旋律にインスパイアされつつ、ジャズの語法も交えた美しくも儚い音楽が繰り広げられる。
共演するメンバーは全員がベルギー出身。アハメド・ハワーシュがベルギー在住だから、自然な人選だ。曲によって編成を変え、アハメド・ハワーシュ自身もクラリネットとネイ2を吹き分けている。非常に繊細な音色が彼の持ち味で、物憂げな(2)「Whispering Ruins」や洗練された美しさの(4)「Harvest of tears」などなど、微分音も効果的に用いながら心の機微を表現。とても優しい音だが、どこか歴史や故郷の人々の苦難をも背負うような重みも感じさせる。
冒頭の詩人ハワーシュはレバノンでパレスチナ難民の子として生まれ、現在はバルセロナに移住しているようだが、この音楽家ハワーシュもパレスチナのヨルダン川西岸地区で生まれ育ったのち、ベルギーに移住している(二人は同姓だが、血縁関係は示されていない)。この事実は、パレスチナで芸術活動を続けることの難しさを示唆している。
象徴的な樹があしらわれたアルバムのジャケットには、「A homeland left, but never held.」という一文が添えられている。去ってしまった故郷は、彼にとって永遠に手に入るものではなかった、というニュアンスだろうか。
アコースティック・ギターのコード・ストロークに導かれる、ラストに収録された(7)「Qahwaji」は今作の中では異彩を放つ。タイトルは伝統的なアラビアコーヒーを表す「Qahwa」(قهوة)に、職業や人を表す接尾辞「-ji」がついた言葉で、家庭やカフェで客人にもてなすためのコーヒーを淹れる人を指すようだ。日常の平和な一幕の夢想が、望郷の念をより深くさせる。
Ahmed Hawwash 略歴
アハメド・ハワーシュは1997年パレスチナ・イェリコ生まれのジャズ・クラリネット奏者/作曲家。家族はエルサレム出身で、幼少期より音楽に親しんだ。
エドワード・サイード国立音楽院(ESNCM)でモハメド・ナジェム(Mohamed Najem)に師事し、クラシック・クラリネットを8年間学んで卒業。ビルゼイト大学(Birzeit University)で経営学を専攻し、2019年まで在籍。在学中からジャズとクラシック音楽に関心を深め、世界各地のミュージシャンによるマスタークラスを受講した。
2015年よりプロの音楽活動を開始し、パレスチナ・ユース・オーケストラのバスクラリネット奏者やパレスチナ・フィルハーモニー管弦楽団の首席クラリネット奏者を務めている。
2017年にツアーで初来欧し、以後活動の拠点をヨーロッパに移し、現在はベルギーのアントワープに在住。 クラリネット、バスクラリネット、ネイのほか、独学でテナーサックスも演奏する。
ジャズと中東伝統音楽(オリエンタル音楽)を融合させた独自のスタイルで知られる。
暖かい音色と創造的な即興演奏、文化的遺産の現代的再解釈が特徴であり、ヨーロッパのトップジャズミュージシャンに師事して洗練された表現力を身につけた。欧州およびアラブ世界の主要フェスティヴァルに出演し、文化の架け橋となる演奏活動を展開。2025年にデビュー・フルレンス・アルバム『Eternal Homeland』を発表し、国際的に高い評価を得ている。
Ahmed Hawwash – clarinet, ney
Natan Goessens – drums
Romuald Veys – keyboards
Sander Huys – bass guitar
Tom Peeters – guitars
- イェリコ(Jericho, アラビア語:أريحا, ヘブライ語:יְרִיחו)…死海の北西部にある町で、紀元前8000年紀頃には周囲を壁で囲った集落が出現したといわれ、世界最古の町と評されることもある。海抜マイナス258mと、世界で最も標高の低い町でもある。カタカナ表記はイェリホ、エリコ、ジェリコなど揺れている。 ↩︎
- ネイ(ney)…中東から中央アジアにかけて伝統的に広く用いられる、葦で作られたシンプルな構造の縦笛。 ↩︎