パレスチナ系SSW、Zeyne のデビューアルバム『AWDA』
「AWDA(عودة)」とは、アラビア語で「帰還」を意味する。
だが、パレスチナ系ヨルダン人シンガー、ゼイン(Zeyne)のデビュー・アルバム『AWDA』が描く「帰還」は、単に故郷へ戻ることだけではない。自分自身を見失った先で、もう一度「本来の私」を取り戻すこと──その精神的な旅路こそが、この作品の核となっている。
全13曲は一つの物語として緻密に構成され、アイデンティティ、家族、喪失、信仰、メンタルヘルス、そしてパレスチナ人として生きる経験が、極めて私的な視点から綴られる。アルバムは怒りや絶望を叫ぶのではなく、それらを抱えたまま静かに歩き続ける人間の強さを描き出す。
音楽的にも、『AWDA』は現代アラブ・ポップの新たな到達点と呼ぶにふさわしい。
2000年代のR&Bやネオソウルを軸に、レヴァント地方1の打楽器やダブケ2のリズム、アラブ音楽特有の旋律を自然に溶け合わせ、伝統と現代性を無理なく共存させている。洗練されたエレクトロニック・サウンドの中にも、文化的な記憶が確かに息づいているのが印象的だ。
2024年に発表され、パレスチナ人としての誇りを力強く歌い上げた(2)「Asli Ana」は、本作では物語の序盤に置かれることで新たな意味を獲得している。リード・シングル(3)「Hilwa」は母や祖母、そしてパレスチナ女性たちへの賛歌であり、(9)「Bali」では母親の闘病や自身の心の揺らぎを率直に描写。(11)「Yom wara yom (OCD)」では、自らの強迫性障害(OCD)3による思考のループをテーマに据えるなど、極めて個人的な経験が作品の重要な柱となっている。
ゲストは最小限に抑えられ、エジプト・カイロ出身のラッパー/シンガー、バイユー(Bayou)が(5)「6 il Sobh」でヴォーカル参加、エルサレム出身のパレスチナ系SSW/ラッパー、サックス奏者セイント・ルヴァン(Saint Levant)が(4)「Arrib Minni」でサックスを演奏するのみ。その結果、作品全体を貫くのはあくまでゼイン自身の声であり、その繊細で誠実な語り口がアルバム全体に一貫した統一感を与えている。
今作は政治的なメッセージを前面に掲げる作品ではない。しかし、故郷を想い、自身のルーツを見つめ直し、傷つきながらも再び立ち上がろうとする姿そのものが静かな抵抗であり、パレスチナやヨルダンだけでなく、広くアラブ社会の希望となって響く。
「帰還」とは、ある場所へ戻ることではなく、自分自身へ還ること。
Zeyneはこのデビュー作で、その普遍的なテーマを、現代アラブ音楽ならではの豊かな表現力とともに鮮やかに描き切ってみせた。彼女のデビュー・アルバムは新世代のアラブ・ポップを象徴する一枚であると同時に、2025年を代表するコンセプト・アルバムのひとつとして記憶されるべき作品だ。
Zeyne プロフィール
ゼイン、本名ゼイン・イッザト・サジディ(Zein Izzat Sajdi)は、1997年ヨルダン・アンマン生まれのパレスチナ系ヨルダン人シンガー・ソングライター/プロデューサー。
祖父母はパレスチナ・ヨルダン川西岸地区北部ナーブルスの出身。音楽を愛する家庭で育ち、幼少期からダブケ(レヴァント地方の伝統舞踊)に親しみ、ピアノやクラシック声楽を学んだ。イギリスのサセックス大学でメディア・コミュニケーションと社会学を専攻した後、2020年に新型コロナウイルス禍の影響でヨルダンに留まることとなり、Instagramへ投稿した歌唱動画が注目を集めたことをきっかけに音楽活動を本格化させる。
2021年、デビュー・シングル『Minni Ana』を発表。アラビア語の旋律とR&B、ネオソウル、ジャズ、ヒップホップなどを融合した独自のサウンドで頭角を現し、Saint Levantとの共演曲「Balak」や、自身のアイデンティティを力強く歌った「Asli Ana」などで中東・北アフリカ地域を中心に高い支持を獲得した。また、Elyanna、Issam Alnajjar、Massariらへの楽曲提供・ソングライティングも手がけている。
その音楽は、パレスチナ人としてのルーツやディアスポラとしての経験、女性としての自己認識、愛、喪失、メンタルヘルスといったテーマを率直かつ繊細に描くことで知られる。伝統的なアラブ音楽の語法を現代的なR&Bやポップスと自然に融合させた表現は、アラブ圏の新世代を代表するアーティストの一人として高く評価されている。
2025年にデビュー・アルバム『AWDA(عودة)』を発表。「帰還」を意味するタイトルのもと、故郷や家族、自己との再会をテーマに据えたコンセプト・アルバムとして大きな反響を呼び、現代アラブ・ポップを象徴する重要作の一つと評された。