たとえ半身が不自由になっても、キース・ジャレットの“復活”を信じられる理由

Keith Jarrett - The Melody At Night, With You

キース・ジャレット、2度の脳卒中で左手が不自由に

米国のピアニスト、キース・ジャレット(Keith Jarrett)が2018年に2度の脳卒中を起こし、現在も左半身の一部に麻痺が残りピアノを弾けない状態だということがニューヨーク・タイムズの記事で明らかになり、追随するように世界中のメディアがその衝撃的なニュースを報じた。
日本でもYahoo!ニュースのトップに記事が掲載され、多くの人が知る事態となっている。

キース・ジャレットは、おそらく他の多くの人と同じように、私にとってもジャズという音楽の魅力を教えてくれた最初のひとりだった。──いや、ここで過去形にするのはよくない。彼はピアニストとして自分の手が自由に動かないことへの失望について語っているが、生きている限りは、またその音楽を聴かせてくれる可能性は大いにあるはずだ。例えば、ブラジル・リオのパラリンピック開会式でブラジル国歌をピアノ演奏したジョアン・カルロス・マルチンス(João Carlos Martins)。彼は若い頃にはブラジル最高のバッハ弾きと讃えられたが、サッカー中の大怪我や暴漢被害といった災難で腕の自由を失った。そんな彼が開会式で見せた右手の親指1本、左手の人差し指と親指2本で弾いたブラジル国歌は多くの人に感動を与えている。

キース・ジャレットが、自らの運命を受け入れ、それでもまだわずかばかりの自由が残った右手で、その言葉にならない心境を音楽に託してくれるのであれば、それは音楽や文化にとって大きな宝物になるはずだ。

キース・ジャレット 私の一枚『The Melody At Night, With You』

キース・ジャレットはこれまでに“名盤”と呼ばれる数々の音楽を残してくれた。完全即興のライヴ『The Köln Concert』、ヨーロピアン・カルテットでの美しい『My Song』、故ゲイリー・ピーコックとジャック・ディジョネットとのトリオの『Autumn Leaves』など枚挙に暇がないが、私にとってのキース・ジャレットの一番の名盤は『The Melody At Night, With You』だ。

1998年に録音され、翌1999年にリリースされたこの『The Melody At Night, With You』は、キースが1996年に発症し活動休止を余儀なくされた慢性疲労症候群(CFS)からの復帰第一作で、それまでの作品にみられた異世界に誘うような精神的激しさは身を潜め、虚空をようやくの想いで掴むような儚さ、優しく癒しに満ちたピアノの音がおそろしく魅力的なアルバムだ。
療養中、彼を精神的に支えた妻ローズ・アン・ジャレットに捧げられたこの作品にはキースの音楽に対する想いの全てが詰まっているように思えるし、これで“復活”した彼はその後再び、精力的な活動に戻っている。

アメリカの伝統曲である(5)「My Wild Irish Rose」や(9)「Shenandoah」がとにかく良い。他の曲もそうだが、思慮深く一音一音を慈しむようなピアノの響きから、彼の苦しみ、人間的な温かさ、そして美しさがダイレクトに伝わってくる。こんな衝撃的な音楽体験は他になかなかないと思う。
私はこのアルバムの存在を知って以来、あらゆるときに、おそらくは無意識のうちに心の癒しを求めて聴いた。聴き続けた。これほど寄り添ってくれる音楽は他になかった。

おそらく、あと5〜10年後にはキース・ジャレットの全アルバムをディープ・ラーニングした驚異的なAI(人工知能)が、キース・ジャレット“っぽい”音楽を作り発表しているだろう。そしてそれは多くの人をとても驚かせるだろうが、誰ひとり心から感動させないだろう。
キース・ジャレットの音楽とは、たとえ彼がどんな状態で奏でられたものであろうと、人類共通の財産である音楽の普遍的な素晴らしさをもっとも高度に蒸留したものなのだ。

キース・ジャレットが再びピアノに向かい、彼の人生を音楽に乗せて届けてくれたら嬉しい。

Keith Jarrett - The Melody At Night, With You
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