稀有なアーティスト、ファラジュ・スレイマンの熱狂的ライヴ
パレスチナ出身のピアニスト/シンガーソングライターのファラジュ・スレイマン(Faraj Suleiman)の新作『Live in Amman』は、『London Jazz Festival 2019』(2020年)、『Live at Montreux Jazz Festival 2018』(2021年)に続く本格的なライヴ・アルバムだ。前2作はジャズ・ピアニストとしてインストを中心としていたが、ヨルダンの首都アンマンでのライヴを収録した今作はシンガーソングライターとしての“歌モノ”をメインとしている。ほぼ全編がアラビア語でのピアノ弾き語りで、彼の歌モノ作品『Better Than Berlin』(2020年)や『Upright Biano』(2023年)からの選曲が中心となっている。
重要な事実として、このアンマン公演が行われたのは2023年7月15日、つまり同年10月7日から始まった戦争の影響を受けるよりも前のライヴである。同年9月下旬のプログレ・ジャズの名作『As much as it takes』のリリースも控え、パレスチナ音楽の“新しい音”を探求する彼の活動が極まっていた時期であり、パレスチナと同じアラビア語圏である会場の熱気とも相まって、その演奏と歌の凄みはひとつの頂点に達している。驚かされるのは、会場の歓声の大きさ、観客の熱狂ぶりだ。イントロや間奏の度に大きな歓声が上がり、ファラジュ・スレイマンがとっくに“ジャズ・ピアニスト”の域を大きく超えていることがわかる。観客たちは表現者としてのファラジュ・スレイマンが大好きなのであり、パレスチナ人/アラブ人としての彼が描き出す世界観に深く共感しているようだ。
この熱狂を少しでも理解するためにも、彼の音楽表現の世界をもっと深掘りしていきたい。
ファラジュ・スレイマンは、過去に「私の音楽は政治的で、パレスチナ人が行うことは全て政治的です」と語っていた。しかし、彼はその表現活動の中で真正面からポリティカルなメッセージを訴えたり、特定の国や政党などを直接批判あるいは称賛することは避けてきた。2023年10月7日1の出来事を受けて彼は大きなショックを受け、しばらくはSNSでの発信も控えるようになり、その沈黙が一部のファンからは批判の的ともなった。
彼は非常に複雑な状況下に置かれながら、常に知的に冷静でいようとしたのだ。
その姿勢が、歌にもよく表れている。
多くの楽曲は詩人/ジャーナリストのマジュド・カヤル(Majd Kayyal)によって作詞されているが、その詩は政治を直接叫ぶのではなく、庶民の日常の視点から、文学的な比喩やアイロニーによって社会や歴史を描くという作風によって徹底されている。
例えば、(4)「Anthem of Arabisrael」という曲などは象徴的だ。アラビスラエル(Arabisrael)というのは、アラブとイスラエルを掛け合わせた造語である。
イスラエルはユダヤ人ばかりの国だと思われがちだが、実は約20%程度もアラブ系の人々が暮らしている。そしてファラジュ・スレイマン自身も、行政上はイスラエルとされるも住民のほとんどがアラブ人というアッパー・ガリラヤのラマ村(ar-Rama)生まれという出自なのだ。彼の故郷ラマは1948年(=イスラエル建国の年)以降イスラエル領となったが、前述のとおり住民のほとんどはパレスチナ系アラブ人で、彼もまたイスラエル国籍を有していながらパレスチナ人としての二重のアイデンティティを有している。ファラジュ・スレイマン自身もインタビューや公式プロフィールでは一貫して「Palestinian pianist(パレスチナ人ピアニスト)」と自己紹介しているが、一方で国籍上はイスラエル国民であり、この二重性が彼の作品世界の重要な背景となっている。
ライヴでもイントロから大きな歓声に包まれ、観客による大合唱も印象的な(13)(16)「Questions on My Mind」は、そうした複雑なアイデンティティと郷愁を見事に描いた名曲だと言えるだろう。
歌のなかで、故郷を離れベルリンで暮らす主人公は、ハイファに残る昔の恋人に電話をかけ、こう尋ねる──「ベルリンは美しいけど、人がいっぱいで辛いときもあるんだ…アテフはまだ建設現場で働いているのかい?疲労が彼を打ちのめしていない?…警察は今でも毎晩アラブの子供たちをいじめに来るのかい?」「ベルリンは美しいけど、人がいっぱいで時々疲れるんだ…故郷が、それ以上に君が恋しいんだ」
(8)「Melodies No More – خلّصنا غناني」は、彼らの反骨精神をよく表している。
古い街を焼き尽くし、近代的な街並みに生まれ変わるきっかけとなったアメリカのシカゴ大火2にたとえ、「アメリカ人がシカゴを焼き払ったように/僕らはジャズを焼き払ったのだから」と歌うこの曲は、不穏だがマジュド・カヤルとファラジュ・スレイマンの野心と才能を象徴する素晴らしく衝撃的な楽曲だ。
ファラジュ・スレイマンの音楽は、パレスチナ人としてのありふれた日常を描き、それがアラブ圏で多くの共感を呼んでいる。
しかし、彼の歌とピアノを聴きながらその日常に想いを馳せるにつけ、歴史的につくられてきた彼らの“日常”が、どれだけ政治や社会からの抗い難い抑圧によって支配されてきたかに想いを至らせられる。
このらライヴ・アルバムは、人間社会の愚かさと、個の人間の強さの両方を同時に感じさせてくれる。
パレスチナ初のジャズ・ピアニスト、Faraj Suleiman 略歴
ファラジュ・スレイマン(Faraj Suleiman, アラビア語:فرج سليمان)は1984年、パレスチナ・ガリラヤ地方(アッパー・ガリラヤ)のラマ村(Rameh / ar-Rama, الرامة)で生まれた。
3歳からピアノを始めてはいるものの、両親は父がおもちゃ商人、母が花屋という音楽的な環境ではなかった。唯一母方の叔父がヴァイオリンでアラビア音楽を演奏する人物であったため、幼少期はこの叔父の傍で多くの時を過ごした。
少年期は故郷の町で同世代のほかの少年たちと同じようにサッカーをして過ごした彼だったが、青年期の終わりに再び音楽に傾倒。そしてイスラエルの音楽教師アリー・シャピラ(Arie Shapira, 1943 – 2015)と決定的な出会いを果たし、音楽のみならずイスラエル人とパレスチナ人の間に横たわる様々な問題も議論する仲に。パレスチナでは周囲にロールモデルのない中で、ジャズ・ピアニストへの道を志すようになった。
2013年にハイファでアーティストとしての活動を開始。2014年にソロピアノ作品『Login』でアルバム・デビューし、以降毎年のように精力的に作品をリリース。2018年にはスイスのモントルー・ジャズフェスティヴァルに出演し、その模様はライヴ盤『Live at Montreux Jazz Festival 2018』で聴くことができる。
ピアノを中心としたバンド編成のインスト作品のほか、パレスチナの気鋭のジャーナリスト/詩人マジュド・カヤル(Majd Kayyal)と組んだ『Better Than Berlin』(2020年)や『Upright Biano』(2023年)といったヴォーカル作品も。さらには映画音楽を手がけるなどその創作活動は多岐にわたる。
現在はイスラエル・ハイファやフランス・パリを拠点に活動。
Faraj Suleiman – piano, vocal
Manar Shehab – vocal
Adan Abbas – vocal
Wael Wakim – vocal
Ferdinand Schwarz – trumpet
Julia Brüssel – violin
Christina Ardenian – viola
Sofia Martin – cello
Johannes Mann – guitar
Conrad Cookie Stephenson – bass
Felix Ambach – drums
- 2023年10月7日…2023年パレスチナ・イスラエル戦争の開戦日。パレスチナのガザ地区を支配するイスラム主義組織のハマスの奇襲攻撃によって始まり、その後イスラエル軍によるガザ地区への反撃が続き、周辺国も巻き込んで2026年6月現在も戦争は終結していない。 ↩︎
- シカゴ大火(Great Chicago Fire)…1871年10月8日夜にアメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ市内で発生した大規模火災。約800ヘクタール以上を焼き尽くしたこの出来事は19世紀を通してアメリカ史上最大の災害であり、多くの被害を出したと同時に、シカゴ市の再開発を進展させた契機として知られている。 ↩︎